ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
前回からの続き…)

象徴は、単なる記号ではありません。
したがって、辞書を引けばその意味が得られるような類のものではありません。
「それ以上」を含むものです。



象徴を記号的に扱う時、
山=父、海=母、みたいな、無味乾燥な「=」(イコール)による関連付け、
みたいになるんですが、

それを象徴的に体験したような場合は、
例えば、山の背後に父なるものの存在を感じて、
何らかの強い衝撃や情動みたいなものを体験することになるんですね。
海の背後に母なるものの存在を感じて、
心にぐっとくるようなものが出てきたりもするのです。

言葉にはできない、それでいて心には強く感じる、
そういう「何か」を体験することになります。

象徴体験というのは、決して、
「=」でつないだだけのような、軽いものではないわけです。



象徴の源泉は、深い無意識の層であり、
普遍的・集合的で、ハッキリしないものです。

いろんなものが集まって混沌としているので、なんやよう分かりません。
(意識できないから無意識というくらいです)

で、そのはっきりしないものの内、何らかの傾向を備えた共通の塊(あるいは型)が、この世に生きている我々の、個人的なものに置き換えられることで、
それは目に見えるカタチとなり、意識できるものとなるんですね。

例えば、広く普遍的な「母なるもの」というのは、広すぎてよう分からんわけですけども、それが個人的に既知である母なるものを通して現れてくると、
我々にも意識できるわけです。

ただ、普遍的な母なるものの像は、我々が普段意識している(現実世界の)母なるものの像よりも、より広く深い、そして多様な傾向を持っていたりするんですけどね。
(我々が見逃しがちな母なるものの傾向が、そこにあるわけです)
(ただ、既知の母なるものにしても、その背後や奥に、そういう広く深い傾向を持っているんですけどね)



そうすると、象徴というものを理解しようと思えば、
個人的な意味も考えないといけないし、
普遍的な意味も考えねばならなくなります。

普遍的な意味だけでは、広すぎたり、おぼろげ過ぎて、よう分からんわけだし、
個人的な意味だけでは、限定され過ぎて、見逃すものが多くなってしまうわけです。

両者の間につながりをつけてこそ、
真に象徴の意味するところが見えてくるわけですね。



象徴とは即ち、直接には触れられぬ、広く普遍的なものを、
その個人に近しいものに置き換えることで、触れられるようにするものです。

あるいは、直接見ることが出来ない、広く普遍的なものを、
その個人に近しいものに限定することで、何とか見えるようにしようとするものです。

本来、「意識で捉えられない=分からない」ものを、
「意識で捉えられる=分かるようにする」、そういう手段です。

そういう試みというか、メカニズムというか、
二つの世界を、つなぐものなんですね。

その奥行きは広く深く、普遍的・集合的で、無限に広いものを、
何とか集約して、個人に示そうとするものです。

そういう意味で、象徴とは、全人類にとって普遍的・集合的であるものが、
非常に個人的な場に現れたものでもあります。



で、その広く普遍的なものが、その個人にとって何を意味するか、
そこに意義があるわけで、
それが記号的に扱われてしまうと、
個人の持つ意味みたいなものが、見えてこなくなるわけです。

ある物体「X」を見た場合でも、それによって生じる情動とか、
それによって連想されるイメージとか、
それは共通する場合もあれば、そうでない場合もあるわけで、

象徴の「個人の場に現れた」という部分を考えると、
そこは無視できないわけですね。

記号的にしてしまうと、
大概の人が「X」を見たら「A」と考えるから、みたいなことになってしまって、
個人的な意味が失われてしまいます。

その人が「X」を見て何を思うかは、聞いてみないと分からないわけで、
判を押したように決め付けることはできないわけです。

更には、本人にしたって、深く考えてみないとそのへんは分からなかったりするわけですから、なおのこと、よく話し合うことが必要になったりします。



なんだか長くなってしまいましたが、
象徴を取り扱う時には、そういう風なことにも注意を払う必要が出てくるわけですね。


意識と無意識、
こちらの世界とあちらの世界、
既知の世界と未知の世界、
個人的な世界ともっと普遍的な世界、

その両方をつなぎ、伝達するもの、
表現するもの、 伝え合うもの、

それが象徴です。



また、ジョン・フリーマンの言葉に戻るなら、
コミュニケーションという意味のみならず、「そこに生きている」という意味が、
象徴にはあると思われます。

象徴自体が、生命力やエネルギーに溢れているというんですね。

それ故に、象徴体験をした時、
我々はそこにエネルギーの躍動を感じるのでしょう。





(「伝えるもの――象徴①」に続く…)





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「人間と象徴の目次」




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南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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