ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
前回は、男と女、性差について書きました。

今回は、父なるものと母なるものについてです。


父の愛は条件付きの愛であり(つまり、ある価値観、基準、行動様式を子供が採用するかどうかに左右される)、一方、母の愛は無条件である(つまり、ふつう母親は子供が生きているだけで満足する)。



上の引用部分に異を唱える人がいても不思議ではありません。

なぜなら、上の記述は、父性や母性の一般的な性質について語っているものだからです。個人が、必ずしもそうとは限らない。

あと、カテゴリや記号としての父母と、性質としての父母は、同じとは限りません。



カテゴリや記号としての父母と、性質としての父母は、同じとは限らない。

まず、ここから説明しましょう。


カテゴリや記号としての、父母。

それはいわば、戸籍のようなもの。(←あくまで、例えです)

男と女が結婚し、子を儲ければ、父となり、母となる。

そういう風に登録されるし、そういう風に認知される。

その人がどんな人であれ、何をしていようが、どんな関わり方をしていようが、関係無しに、父や母になります。



では、性質としての父母は、どうでしょう?

こちらは、一般的な性質、父性や母性のことでもありますが、一方で、個人としての性質でもある。

カテゴリや記号としてのそれは、何をしていようが、あるいは、何をしていまいが、父になり、母になる。

一方、性質としてのそれは、何をしているのか? どうやっているのか? が問題になります。

どういう在り方をしているのか? そこが問題になる。


ただ、大きな意味と、個別の意味の、両方があるようです。



例えば、子育てにおいて父性は、子供に社会規範や常識といったものを教えることを期待される。

それはしてよろしい、それはしてはいけない、最低限これは守りなさい、等を、教える。善悪の区別を説き、あるいは、我慢や責任についても教える。

一方、母性といえば、善悪の区別なしに、赦す。分け隔てなく、子を包み込み、育てる。


こういうのは、昔の家族像をイメージすると、分かりやすいかもしれません。

父性は子供を叱り、時には強烈な雷を落とす。一方、母性はこっそりと子を呼び、励ましたり、赦したりする。

こういうのが、大きな意味での性質。


といっても、これが完全に果たされるかというと、そうではありませんよね。完全な人間がいないように、完全な父母もいないわけで、父性や母性が完全に体現されるかというと、そんなことはありません。



また、何事にも個人差があるので、父性が強い人もいればそうでない人もいます。母性も同じですね。

一般的な性質と、個人の性質は同じとは限りません。また、それが悪いなんてこともない。

母性の強い父親がいてもいいし、父性が強い母親がいても、悪いことはないし、不思議でもない。

それが持って生まれたものならば、ですね。



ちょっと話を戻します。

“カテゴリや記号としての父母と、性質としての父母は、同じとは限らない”


これは言い換えると、こうなります。

カテゴリや記号として父であっても、父としての役割を果たしているかは別である。
 ↓
カテゴリや記号として父であっても、していることという意味で、父であるとは限らない。

同じく、

カテゴリや記号として母であっても、母としての役割を果たしているかは別である。
 ↓
カテゴリや記号として母であっても、していることという意味で、母であるとは限らない。

となります。



ただ、父の役割・母の役割には、一般的な意味と個人的な意味があるので、難しい部分があるようです。

一般的な意味については、既に簡単に述べました。

ただ、これをすべて個人に当てはめる必要もなく、極論すれば、それぞれが父や母になればよい。

カテゴリや記号ではない、それを越えた、していることや関わり方を中心とする、父や母になればいい。

逆にいえば、カテゴリや記号では父や母でなくても、していることや関わり方で、胸を張って、父です・母です、と言えるということですね。

また、していることや関わり方を無視して、カテゴリや記号を盾に胸を張ることはできない、とも言えるでしょうか。

(といっても、人間、完全にはできないので、難しいですが)



こんなことを考えるのは、父母にとっても子にとっても、ある種、痛ましいことですが、世の中には、それを考えねばならないといったケースも少なくないのでしょう。

そのままではすまない、ってことは、どうしても生じるようです。



子供はいつか、大人にならねばなりません。

それは、カテゴリや記号としての、大人ではありません。

していることや、関わり方といった意味での、大人です。


それと同じように、

記号としての父は、やがて本物の父にならねばならず、
記号としての母は、やがて本物の母にならねばならない、

そういうことがいえるのでしょう。


あまりガチガチに考えることはありませんが、

いつかどこかで、父母に限らず、

そういう勝負をせねばならないのかもしれません。


我々は、それぞれの、何かにならねばならない。

記号やカテゴリでない、本物の何かに…





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これらの難しさの理由にはいくつかあって、一つには、ペルソナがそうであったようにモデルが要ること。また、どちらかが著しく欠けている場合、他方がそれを補おうとして労力を使い、本来すべきことまで疎かになってしまうこと。それらがあるのかもしれません。

例えば、父性が著しく欠ければ、本来母性を発揮すべき人が父性まで体現しなければならなくなり、どっちつかずになってしまう。あるいは逆に、母性が著しく欠ければ、本来父性を体現すべき人が、父性に徹することができなくなる。

更に、これらの姿勢が子のペルソナに影響を与えたりするので、なおのこと、ややこしいようです。

また、今までのやり方が通用しなくなっている、という点もありそう。

だから、これから本物になろうとする人は、たいへんなのだと思います。





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生息地:関西
分類:昭和人間
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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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