ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
最近、カテゴリについて考えることがよくあります。

風潮なのかどうか、人を見ずにカテゴリで語りたがる人が多い。

その人が所属するもの、その人が関わるもの、その人が趣味とするもの等など、人を語る際に、カテゴリが大きな力を持ったりする。

カテゴリですべてを判断し、決め付けているように感じることがよくある。


それはある意味、危険なことで、カテゴリで人を語ろうとすると、それはまるで札を見て個人を語るようなもので、人間というものが無視されてしまう。

その人は、何を言い、どういう態度で、何をしてきたか? 今問題となっている事柄に対し、その人は実際にどうしているのか?

そういうものが無視されてしまいます。

カテゴリを知っただけで、すべてを分かったような気になって、判断を下してしまう。札に書いてあることを読んだだけで、全人格を理解したような気になってしまう。

こんなバカげたことは、ありません。



カテゴリとは分類するもの、分けるものです。

最初の範疇(カテゴリ)は、「有限と無限」「奇数と偶数」「一と多」「右と左」「男と女」「静と動」「直と曲」「明と暗」「善と悪」「正方形と長方形」だったそうです。

ここではそのうち、「男と女」について考えます。



男と女は、同じか? 違うか?

そう訊かれれば、同じであり同じでない、と答えるでしょうか。

男と女は共に人間であり、そういう意味では同じです。ただ、生物学的な特徴など、明確な差異もある。この両方がいえるので、同じか違うかの、二者択一で分類することはできません。


ただ、中には、どうしても分けたがる人もいます。

分けたがる人といっても、男と女を分けたがる、という意味ではありません。何かの問いに対し、イエスかノーか、同じか違うか、どちらかに分けたがるのです。

また、一度答えを決めたなら、ものすごい頑固さを持って、これを徹底する。例外など認めません。まるで答えが最上位にあり、他の事などどうでもいい感じ。

違うと決めたら、何としてでも違うことを証明しようとし、同じだと決めたら、何としてでも同じだと主張する。

別に、証明したり主張したりすることは悪いことではないのですが、決めたことを頑なに守るために、時に、事実を無視したり、強引な曲解を用いたりするので、ややこしいことになることもしばしば。

同じ部分もあり、違う部分もあり、ということを、なかなか認めない。

ある部分では同じであり、ある部分では違うということが、受け入れてもらえない。

そういう場面が、いろんなところで見受けられたりします。



さて、アンソニー・スティーヴンズは、以下のようなユングの主張を紹介してくれています――


男性性と女性性は元型の二大原理であり、均衡のとれた宇宙体系の平等で相互補完的な部分として共存しており、道教哲学では陰と陽の相互作用として表現される。これらの元型的原理が提供する基盤の上で、男性的なステレオタイプと女性的なステレオタイプとがそれぞれの作業に取り組み、性差の意識を生むのである。性差とは自然が私たちに授けた性別に対する心的認識であり、社会的表現であって、子供の性差意識は生後十八ヶ月というごく早い時期に確立される。




ユングが主張するように、男性性と女性性は、共に世界に必要なもので、故に互いに平等であり、相互補完的に働きます。

差を持つからこそ、互いを助け、補完できる。補完とは、不十分な部分を補って完全なものにすることです。

物事は得意と不得意、強みと弱み、両方を持つものです。そして、自身や同類が不得意や弱みを補うことは難しい。時には、根本的に無理なことさえあります。

しかし、性質の異なる存在があれば、話は別です。補い助けることができる。

差というのは、こういう点において、尊いものなのです。

また本来、そこに優劣はない。

部分的にはあるでしょう。互いを補うということは、前述の通り、得意と不得意、強みと弱み、両方を持つことですから。

しかしそれは部分であって、総体としての優劣があるわけではありません。どちらも尊く、素晴らしく、必要なのです。なくては困る。



このようなことを考えると、性差の持つ意味がお分かりいただけるのではないでしょうか。性差は、悪いものではありません。

性差によって傷つけられたことがあったなら、それは性差のせいではありません。性差を使って、あるいは、それを口実に、傷つけた人間が悪いのです。個人が悪いのであって、性差が責められることではない。

男尊女卑という問題があったとしても、それは性差が悪いのではなく、一方を尊とし他方を卑とする、その個人が悪いのです。性差が否定されるものではありません。


一人の人間を指差し、お前が悪いと言うのは、なかなかエネルギーの要ることです。難しいことでもあるし、デリケートな部分もある。

だから、社会が悪いとか、性差が悪いとか、競争が悪いとか、格差が悪いとか、言われてしまう。言いやすいから。

しかし、社会を構成するのは名前と顔を持った個人です。また、差そのものが人間に害を与えることもありません。

害を与えるのは、差をもって人間を愚弄する人です。何か理由を見つけて、人を劣等とし、蔑む人です。そんなことをする個人が問題なのです。

ここを間違わないでほしいと、私は願います。


ただ、そんな人間にだって、よいところがあるのも事実ですけどね。

すべてがよい人がいないように、すべてが悪い人もいないでしょう。

ただ、問題は問題で、正す必要はあるでしょうね。全人格を否定することはありませんが、問題をなしにすることもありません。

特に、人間を切り刻むような問題は、ですね。







世の中には、男と女がいます。

同じであり、違った存在。

だからこそ、互いに補い合える。

また、惹かれあう。


それは素晴らしいことだと思います…





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鍵は錠があるからこそ意味をなし、

錠は鍵があってこそ意味をなす。





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南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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