ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
ユングの生涯や彼の体験した「創造の病」、「能動的想像法」の概略や「錬金術」については、順番を前後して、後で触れようかと思います。


今回は、“元型”と“集合的無意識”についてです。



元型は「われわれすべてに共通する心の構造」であり、そのすべてが合わさって「古代からの人類の遺産」を構成している。しかるべき機会には元型は階級・宗教・人種・地理的位置・歴史的時代にかかわりなく、人間のうちに似たような思考・イメージ、神話素、感情、観念を生じさせる。ある個人の元型的蓄えの全体が集合的無意識を構成し、その権威と権力は、人格全体を統合している中核に帰属する。その中核をユングは<自己>と呼んだ。




ユングは、人間には普遍的な意識構造があると考えました。

(普遍的とは、「すべてのものに共通している」といった意味です)

人間には各個人の経験によって形成される“個人的無意識”がありますが、それと共に、もともと備わっている無意識の層がある。先天的に有する無意識がある。そう考えたのです。

大人と子供の区別なく、あるいは時代や地域差の区別もなく、すべての人間が持っている無意識があると、ユングは考えました。

それが“集合的無意識”。

そして、その集合的無意識を構成するのが“元型”ということになります。



「元型は『われわれすべてに共通する心の構造』であり、そのすべてが合わさって『古代からの人類の遺産』を構成している」

「ある個人の元型的蓄えの全体が集合的無意識を構成し、その権威と権力は、人格全体を統合している中核に帰属する」



壮大な話になりますが、宇宙を巨大な樹だと考えた時、我々個人の持つ意識は、枝の先ということになります。枝分かれした一つひとつの先っぽ。それだけを見ると、個別の存在、個人に見える。同じ種でありながら、個体差をもつ存在。

しかし、我々は同時に、見えない領域――すなわち無意識の深い層――ではつながっている。枝が元を辿っていくと幹につながるように、枝の一つひとつは実はひとつの大きな樹の一部なのです。


ただし、この世に生きる我々は、枝の先っぽしか見ることができません。いや、実は、自分自身という枝は見えず、この目で見るのは、他者という他の枝。我々が見るのは実は、鏡や他者に映った自分であり、投影なしに自分自身、自分そのものを見ることができない構造になっているようです。

そういうわけで、枝の先の自分さえ投影なしに見ることのできない我々人間は、枝の奥、幹や樹の全体像など見ることはできません。根元も見えない。


見ることはできない。けれど、確かにつながっている。影響も受ける。

集合的無意識や元型というのは、そういうものなのです。



元型というのは、字の通り、「型」です。型というぐらいだから、それそのものは見えません。だいたいが、見えない内側の、ずっと奥にあります。

元型はある意味では、「素数」に似ているかもしれません。素数とは、1 と自分自身以外には約数をもたない正の整数(大辞林より)。もう、1 とその数以外のどんな自然数でも割り切れない。

元型はいわば、それ以上割り切れないような、人間の持つ構造の核なのかもしれません。それをいくら分析しても、それ以上は簡単にならない成分。(要素)


元型には、影やアニマ・アニムス、太母や老賢者、自己などがあります。


例えば、「母」で表現されるものは、この世にたくさんありますよね。

実際の母から、母なる大地、母なる海、命の母A、母屋とか母国なんて言い方もします。

このように、物事を生み出す存在や、生み育てる存在を、母という存在と絡めて表現する。

それら全部の根源となるものが、元型として存在することになります。

それらのすべて、いいも悪いも、何やかんやすべて含めた根源、それでいて、もうそれ以上割り切れない元になるもの、それが“太母”という元型。

全部の性質を包含しながら、それでいて、たった一つの存在。(それに関係するものなら)何にでもなれる、元になる要素。



何にでもなれるということは、どんな現れ方をするか分からないということでもあります。

「母なるもの」という元型があるとすると、それは包み込むようなやさしさを持って顕現するかも分からないし、逆に、すべてを呑み込む怖い存在として顕現する可能性だってある。

我々の目に留まる静止画のようなポイントではいろんなカタチをとるし、すごくよいと思うものもあれば、すごく怖いと思うものもありますが、それは正反対なようで、実はひとつの根源から来ていたりするのです。

多面的な性質のどの部分が顕現するかによって、枝の先である我々の意識が捉える印象は、すごく違ってきます。

また、多面的だから、人間はそれを同じものだと認識し難い。


しかし、この性質について、A・スティーヴンズは、面白い説明をしてくれています。



元型はある物の一般的特徴を具現化しているという意味では集合的であるが、同時にその個別の発現の中にもやどっている。例えば人間の指紋はその形状からすぐに人間の指紋だと分かるが、同時に、一人ひとりの指紋はすべて形が違う。それと同じように元型は普遍的なものと個別的なもの、一般的なものと独特のものを併せ持っている。つまり、人類全体に共通でありながら、一人ひとりの人間に、その個人特有の形であらわれるのである。

(原文は、太字部分が傍点)




例えば、目の前に何かが現れるには、それに足るだけの環境や要素が必要になります。

影が現れるには、光源も必要だし、映す先も必要です。真っ暗な中では何も映らないし、例え光源があっても、映す先や映る元がないと、映りようがない。

だから、枝の先がどんな素養を持っているかとか、他の枝とどんな関係にあるかとか、どんな布置に置かれているのかとか、そういうことでも、どんなカタチで元型が生じてくるかは、千差万別なんでしょう。

それは同じ根源を有している、けれど、表に現れるカタチは同じとは限らない。そういうものなんです。

円錐は、光を当てる角度によって、投影される像は変わってきます。三角にもなれば、円にもなる。シルエット・クイズみたいなのがありますが、どの方向から見るかとか、どこから光を当てて影を見るかとか、そういうので、目に見える像というのは変わるのです。



我々人間は自分自身を見ることができない。また、ずっと奥にある自分自身の根っこも、見ることができない。

ただ、それは、他者との関係の中で活性化され、何らかの像を顕現させる。

それらはあらゆる差を越えて、繰り返し現れる。

そんな目には見えない、けれど表に(像が)現れる、そんな型に、ユングは注目しました。




次回も、もう少し、元型と集合的無意識について…





人間と象徴 上巻―無意識の世界
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「無意識/個人的無意識/普遍的無意識」




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生息地:関西
分類:昭和人間
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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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