ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
河合隼雄先生は、我々に多くのものを与えてくださったけれど、その半面、伝えたかったことの内、一体どのくらい伝えることが出来たのだろう? そう思ってしまう面があります。

河合先生の著書を読んでいると、「果たして、どこまで伝わるだろうか?」、そのような畏怖があったということが、それとなく書かれているように思うんですね。

それは過去形で書かれていたりするけど、生涯通して持ち続けた思いなのかもしれません。だいぶ言えるようになった、でも、はたしてどのくらい言えたのか。言えないまま抱えていたものは、どのくらいあったのか。

なにせ、人の「心」に触れる専門家だったわけだし、それが深まるにつれて、「たましい」としか呼べないようなものまで扱うことになるのだから、そういう恐れがあって当たり前だし、無いと困るでしょう。

少し前までは、「たましい」なんて口に出せなかった時代だったようだし、今でもその部分は残っているだろうし。



先生はある著書の中で、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引き合いに出し、こんなことを述べられています――


内界の素晴らしい秘密を見たモモに対して、マイスター・ホラは、それを他人に話すためには、「お前のなかで言葉が熟さないといけない」と忠告する。われわれは素晴らしいものや、珍しいものを見ると、すぐ誰かに話したくなる。しかし、内界へ旅するものはその危険性を十分に知っていなければならない。




また実際、物語の中では、


未熟な言葉で秘密を語ろうとした人の運命は、ベッポの体験に示されています。




ということになってしまうんですね。

先生の立場なら、「胡散臭いもの」という烙印を押されかねないのです。





と、そんなことを考えていると、ちょうど、NHKの『知るを楽しむ』で金田一秀穂さんが、「日本語のカタチとココロ」という題で話をされていた――

そこで言われていたのが、

「言葉にならないものは、世の中にいっぱいある」
「気持ちを言葉で表すのは難しい」
「感じを伝えるのは難しい」
「自分の言いたいことをちゃんと言えた! そういう言葉を見つけるのはとても難しい」


というようなこと。


河合先生の分野である、「心」とか「人間の内面」というもの、あるいは、もっと深い層にある、「普遍的な無意識」みたいなもの、そういうものはカタチがないだけに、伝えるのが難しいわけです。

「ハイ、これです」と見せるわけにもいきませんから。

それはまさしく、「気持ち」や「感じ」であり、「イメージ」だったりするんでしょう。

それだけに、しんどいものがあったでしょうね。

伝えたいけど伝えられないというしんどさは、我々も体験していることではないでしょうか。



で、こういうのは、ユングのいう「象徴」の考えにも似ていると思います。

本来カタチのない「気持ち」とか「感じ」というものを、我々人間は、自分の知っているものを使って、表そうとします。

しかも、出来るだけ「しっくりくるもの」で表現しようとするんですね。

「象徴」というのは、無意識の深いところにあるものが、「こちらの世界」、つまり、我々が生きている現実世界のものを使って、「もうこれしかない」といったピッタリしたものを使って表現されるものです。

(ざくっと言えば、ですけどね)



こういう人間が使うほうのやり方を――つまり、人間が気持ちとか感じを伝える方法を――「メタファー(暗喩)」として、金田一先生は紹介してくれています。

他のもので、あるものを見立てて、それによって、我々はいろんなものを理解し、言葉にし、伝えたり、共有したりするわけです。

例えば、「パンの耳」「台風の目」「(パソコンの)マウス」とか、言っちゃうわけですね。

しかし、ホントのことをいうと、「パンの耳」は「耳」ではないし、「台風の目」は「目」ではないし、「(パソコンの)マウス」は「ネズミ」ではないんですけども、そういう「しっくりくる」表現を使うことによって、理解しやすくなったり、伝えやすくなったりするんですね。

それで、みんな、共有しやすくなったりするんです。


心の中にみられる、ある共通の型(元型)にしても、「影」は「(地面にできたりする)影」ではないし、「太母(母なるもの)」は「(実際の)母」ではありません。

しかし、本来言葉で表せないものを、既知の言葉で表そうとする時、

(本当は、言葉云々も関係なくて、本来意識で捉えられないものを、意識で捉えようとする時)
(意識で捉えられるように、意識界のものを使って表現しようという時)

一番「しっくりくる」姿が、「影」であり「太母」である、というわけです。

これは夢に現れる象なんかにもいえることです。

(って、いきなり言われても、分かり難いですよね…ともかく)



人に何かを伝えたいというのは、非常に人間的な心の働きであると、金田一先生は言います。

これは人間相互の関係のことですが、おそらく、こういうことは、ひとりの人間の中にあるメカニズムのようなものにも、いえるのではないでしょうか。

我々の奥にある、無意識ってやつは、常に自我に対し、何かしらを伝えようとしてるんですね。

本来伝えられないものを、何とか、自我が理解できるように、自我が理解できるもののカタチを借りて、伝えようとしているんです。

こう考えると、「メカニズム」っていうくらいですから、そこに人格などあるはずもありませんが、自然というものがそうであるように、何か、人間的なものを感じずにはおれません。



そして、それでも伝えられないものがあると、金田一先生は言います。言葉では伝えられないものがある、と。

人間というのは、それでも何とか、必死に伝えようとするんですね。

そして、それは、「心」というものも同じで、我々の奥の方にある、姿見えない、「心」ってやつは、なかなか伝えられないもの、伝えよう伝えようと思いながら、それでも伝わらないもの、そういうものを、何とか必死に、我々(自我)に伝えようとしているというわけです。向こう側から。

(↑本来人格のないものに、あえて人格を持たせてますけどね)


「人間 対 人間」の関係にしろ、ひとりの人間の中にある、「自我 対 無意識」の関係にしろ、言葉(言葉で表せるもの)の向こうに、大事なものがあって、それでも必死に伝えようと、頑張ってたりするわけです。

(そう考えると、いじらしいじゃ~あ~りませんか)



我々は時に、「心に響く言葉」「胸打つ言葉」に出会うことがあります。

また、そういうのは理屈を越えていて、文章として成立しているかどうかとか、高尚かどうかとか、稚拙かどうかとか、つじつまが合うかどうかとか、そんなものは関係なくて、まるで内からあふれるものがペンに乗り移ったようになった時、言葉の向こうにあるものが、何かの拍子に現れた時、そういう時には、やはり、伝わるものがあるのだと思います。

(内から出るものが大きすぎて、やられちまってる時は、危ういですけどね…)

「想い」と「言葉」がシンクロした時、そういう、説明のつかないチカラ(あるいは、イノチ)が宿るのかもしれません。

そして、心の現象の場合、そういうものが、「共時性的現象」だとか、理屈を越えた、不思議で、それでいて胸打つ、そんな瞬間として、現れるのかもしれません。

(う~ん、こういうことを書くとまた、胡散臭がられるのかな…)
(まあ、こういう理屈を越えたものを、無理やり因果関係で説明しようとしたりしたら、そうなるのかもしれません…)





何だか、いつにも増して大脱線した感がありますが、え~っと、そうそう――

河合先生の傍には、きっと「怖れ」のようなものがあって、それは前述の通り、「どこまで理解されるか」「どこまで受け容れられるか」、そういうものがあったのだと思います。

で、それは単に伝え方の問題ではなくて、受け取る側の、容量の問題でもあります。

伝える方の、言葉が熟すと同時に、受け取る側も、ある程度、熟さないといけないということです。共有する場の成熟というのがあるのでしょう。



前時代、我々受け取る側には何の準備もありませんでした。下地ってやつが、なかったわけです。

だから、河合先生は、その役割を買って出た面があるんでしょうね。

伝道師として、それを伝えるに足る土壌作りに励み、また、自身の中で、言葉が熟すのを、待っておられたのだと思います。

(そして今、それらがカタチとなって現れている)


これを受けて、本当に治療者といえるのかとか、学者といえるのかとか、そういう意見も出てこようかと思いますが、先生は、このような土壌を作った、パイオニアだったわけで、誰もやってなかったんだから、誰かがやらねばならなかった。

で、先生がやった。

それだけのことです。



そして、そんなことは抜きにしても、河合先生の中には、「伝えたい」という、強い想いがあったんでしょう。





未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)
未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)





「その四」に続く…)




想いもなしに人間は動かんと、私は思うし、やったことの大きさを鑑みれば、なおさらそうだと思います。

先生の中に、強く突き動かすものがあったんでしょうね。





【蛇足】

で、こういう長々書いたことを鑑みると、「ウソツキクラブ」というものにも、感慨深い思いがしますよね。



【追記】


「君のように、なんでも正直に思うたことを口にしていたら、そのうち十字架にかけられてしまいまっせ。わしは本心なんか、そうそう簡単に口にしません。黙っといて、相手の本陣に入り込んで準備を進めて、ここぞと思うときまで、じっと待つんですわ。それまでは、人からどんなに誤解されたってかまわんのです。そういう人たちは、じつはものが見えとらんのですから」と、よく私を諭された。




(人類学者 中沢新一さんの追悼文より)
「ryuzumeiro's blog」さんより引用)
(読売新聞 Web版では確認できない模様…)



【ちょっと関連】
『言葉は「気持ち」を運ぶ道具』







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◆作品の内容に触れる箇所があります、注意してください◆


「ゲド戦記⑨-2」からの続き…)


カラスノエンドウは、本性さえ知れば、きっと何とかなるだろう、
というようなことも言います。

この「本性」とは、「真の名」にも通じる、
それの持つ特性とか、性質、
もっと進んで、「そのもの」と深く関わるものなんでしょうね。

記号的な意味での「名前」ではなく、
ユングのいうところの「象徴」のような意味の、

それを言い表すのにそれしかないもの
なんでしょう。

更には、現代に生きる科学者にしても、そういうものを探しているといえるのかもしれません。

我々の身のまわりにある技術にしても、
我々はそれに気づかなかったり、忘れていたりしますが、
科学者たちが解き明かした、「それ」の特性、
そういうものを技術化したものによって、生かされたり、便利な思いをさせてもらっているのです。



というわけで、「本性さえ知れば、きっと何とかなるだろう」というのも、
なかなか意味ある言葉であると思います。(*1

そして、逃げている間は、その本性なんて分かるはずもありませんが、
それと向き合い、見つめていれば、
それなりのことは、段々とにでも分かってきそうです。

それこそが影をなんとかする道であり、
我々の先人たちが、いろんなものを獲得してきた道でもあるんでしょうね。




「ゲド戦記⑨-4」に続く…)




もっとも、影の場合、
それをじっくり見るのが難しい、
そんな理由があったりしますが…




(*1

例えば、未知のウイルスにしても、
それが未知である間は、どうにもできなかったりしますが、
その特性が分かってくれば、対処のしようもあります。




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大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。

親しんだ、名前があった。

「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)





その中で、こんな話が出てきます――


今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。



今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、

もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。

あるいは、通用しなくなる。


たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。



自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。

いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。

それではどうしようもなくなる。

(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)

状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。

(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)

それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、

厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、

冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。

夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。

身体も壊す。
壊す前に、つらい。


ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、

だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。


気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、

時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。


人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。





こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。

思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1

(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)

ともかく、通用しなくなってしまう。

こうなると、壊すしかなくなる。


そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。





ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。

言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。

もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。


我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。

それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。

何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。

そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。

それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。

そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。



実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、

それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。

(ここに象徴の魔法がある)

しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。

(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)

ここに、象徴の意味が出てくる。

実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、

深いところでつながっていて、

実際と同等の悲しみを経験する。

そして、最終的に、実際に変容する。


これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。

実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。


(それは安易な代替では行えんことだ)




(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。



【新潮社のページ】
「考える人」
http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/high/high87.html



[サイト内タグ]:  河合隼雄  象徴  死と再生  破壊



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河合隼雄さんの「昔話の深層」という本に、
『生れ子の運』という昔話が紹介されています。

これは「運命」に関することや、それに抗する父親の姿、

「運命を避けようとする試みが、ますます運命をひきよせることになる」


という(リューティの)言葉などと共に語られているのですが、

そんな中で、悲惨な運命(という現実)を回避する方法のひとつとして、
紹介されたものです。



内容を非常にざっくりと紹介すると、

ある夫婦に子供が授かったので、子安地蔵さんに願をかけに行くと、
そこで分かったのは、生まれてくる子供が十八歳で、ある存在にとられること、
(つまり亡くなること)でした。

そういうことが分かっていたので、子が十八歳になったとき、
子供が予定された地に出向くのを、父親は必死に止めるのですが、
子供は親の目を盗んで、そこに出かけてしまいます。

そこで父親がとった行動は、葬式をあげることでした。
もう子供は死んでしまったものと、現実として受け容れたのです。

結果何が起こったのかというと、
非常に日本の昔話らしい出来事が起こって、
子供が十八歳でとられることはなくなったのですが、

ここで注目したいのが、
親が 実際に 、葬式をあげたことです。



いくら予言されていたとはいえ、
子供が実際にそこに行ったのを確認したわけでもなく、
ましてや、追いかけて行ったのもなく、
また、実際にとられたのを確認したでもなく、

しかし、実際に、それが起こったものと受け容れて、
葬式をあげようとするんですね。

実際に、葬式をあげるのです。

実際に、悲しんで、ですね。



おそらく、昔話というものを考えると、
その時、父親が追いかけたり、必死に止めようとしたら、
運命は成就したのではないかと思います。

つまり、子供は実際に、とられたでしょう。

しかし、この昔話では、
その運命を阻止しようと、実際には追いかけず、
むしろ、実際には諦め、

運命を受け容れて、実際に喪に服し、
葬式をあげることで、

子供をとられることは、実際にはなかったのです。



この、奇妙な 実際に こそ、
象徴なり、象徴体験なりが持つ、意味なのだと、
私は思います。


悲惨な<実際に>を回避するために、
実際に、何かしらの「それ」を受け容れ、

ごまかしではなく、実際にそれを体験し、経ることで、

実際に、陰惨な「それ」を回避できるのです。


こういうことは、なかなか伝わり難いのではないかと思いますが、

避けようのないことは、どうしたって避けようがないので、
それを経験するしかなく、
それを経るしかなく、

したがって、受け容れるしかないので、

象徴体験として、「それ」を経験し、経ることで、

実際の それを済まし、

実際に 起こるそれを、回避するんですね。


まあ、回避するといっても、
本人は、それを実際だと思って経験するのであって、
それは実際には起こらないものの、
実際にそれを体験してるんですがね。


つまり、実際に悲しいし、実際につらいんです。


うまく伝わったか、はなはだ疑問ですが、

こういう象徴的な葬式体験をすることには、
意味があると、私は思うのです。






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象徴というものも、誤解されると、
単なる記号遊びのように使われて、

A → X
B → Y

海 → 母なるもの
山 → 父なるもの

みたいに、
記号の置き換えや変換みたいに、使われる気がするんですが、

本当の意味での象徴体験というものには、
やはり、「エネルギー」ってやつが、深く関わってくるのだと思います。



例えば、「ギョッとする」なんてのも、そうですね。

何かしらの夢をみたとして、
それを単に(表層を)語っている時には、「ギョッと」なんてしないかもしれませんが、
(いや、まあ、夢を体験しただけで、ギョッとすることもあるんですが、ここでは置いといて…)

その夢の持つ一面に気づいた時、
「ハッと」したり、「ギョッと」することは、あると思います。

で、その「ギョッと」することにこそ、意味があるのであって、
単なる知的理解だけでは得られない、
例えば、誰かとの相互作用の中で得られるような、
感情を伴なった、体験知こそ、
意味があるんでしょう。

それでそこ、心に基礎付くだろうし、
現実世界にも、何らかの影響を与えるんでしょうね。

そして、それこそ象徴体験であって、
そこには(心的)エネルギーというものが、
深く関わってくるのだと思います。



こういうのは、何も夢だけではなくて、
自分の発した言葉なり、態度なり、行動なりにもいえて、

何かの拍子に、ギョッとするような体験があってこそ、
そういう、心に響くものがあってこそ、

気づけたり、方向転換できたりも、するんでしょう。



まあ、当然、
「ギョッ」には、破壊的なものが含まれるんですけどね。

だから、いちいちギョッとさせればいいというものでもなくて、
なんというか、

そういうのは、本来、自然と出会うもんなんでしょう。

この、「自然」という縁と、
それに伴なう、「意味深さ」が、

「共時性/共時性的体験」ってことなんでしょうね。



「後編」に続く…)



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南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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