ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
加藤諦三 著「話が通じない人の心理」(青春文庫)より。



P96では、「人は人、自分は自分」という考え方が問題とされています。いわゆる、個人主義でしょうか。

「人は人、自分は自分」、この考えも使い方次第でしょう。生き方という面において、これは保障されていいように思います。誰もが、自分の思うように生きていい。

が、しかし、です。これがマナー破りの言い訳に使われたりするので、困りますね。実は人に迷惑をかけた時点で、「人は人、自分は自分」という前提が崩れます。なぜなら、「自分が人に迷惑をかけている」からです。音、におい、接し方など、相手が不快に思うような影響を与えている。これでは「人は人、自分は自分」とはいえません。

けれど、他人という現実がなければ、迷惑をかけられている相手という現実もないことになってしまう。なので、「何が悪いの?」となってしまいます。本当は違うのに、「人は人、自分は自分」と都合よく解釈されるのです。





ところで、人間が最初に出会う相手(他者)とは誰でしょう?

それは母親です。初めお腹にいたのが、やがて生まれる。ただし生まれてからも母子一体感は残り、生まれたばかりだと相手という認識はありません。それが育っていくうちに、「わたし」という感覚を覚えていく。そういう意味で、最初の相手とは、身近な養育者になると思われます。

他人という現実がない → 他人に関心がない → 自分にしか関心がない。

この理由をこの本では、「自分を守らねばならないから」と説明している。母性とは本来、「あなたに何があっても大丈夫」であるとか「あなたが何をしようとも愛している」といったもの。それが著しく欠けると、自分で自分を守るしかなくなるというのです。

そしてもうひとつには、モデルの欠如というのもありそうです。マナーを守ったり、人を気遣ったりというのは、そういうことの大切さを経験したり、そのような行為を目の当たりにしたりと、モデルとなる人の存在がいる。ということは、身近にモデルがないと、それを知らないことになります。知らないので、「勝手でしょ」などと言えるのです。

これらのことを考えると、「保護責任」という言葉が浮かび上がる。1つは幼い子を保護し、養育するという責任。そしてもう1つは、子どもを(ある程度)まっとうな人間に育てるという責任。

本人に度を越えて自覚がない → 責任能力がないように見える。このような場合には、たとえ相手が大人であれ、それを保護する人のことも考えねばならないのかもしれません。

(保護責任とはいっても「責任をとらせる」といった意味ではありませんよ。むしろ強調したいのは「保護」の方。自分で制御できないなら、周りで制御しないとね。自分も、相手も、両方守るために)

とはいえ、仮に保護責任というものを放棄したり軽んじてきた人を相手にするのであれば、ちょっとこれも難しそうですね。





他人という現実がないナルシストですが、それでいて、「他人に好かれようとする」という。

ただし、相手に関心がなく、相手の気持ちを察しないので、ややこしいことに。相手の気持ちを考えずに、相手に好かれようとする。だから、逆に、嫌われる結果になりやすいと。

安定している人は、度を越えて好かれようとか、度を越えて嫌われないようにしようとか、そういう風に執着することがありません。もちろん、好かれたらいいと思うし、嫌われないようにしようとは思うけれど、それに恐怖したり、こだわりすぎたりはしない。

それはなぜかといえば、安心しているから。あるいは、十分に愛されているから。だからむやみに気を遣う必要がない。

では、逆はどうでしょう。十分に愛された経験がなく、どうも安心できなかったら。そうなるとすごく求めるし、気も遣いますよね。時には、失うことに恐怖するかもしれない。

恐怖を意識するのは目の前のことに対してなのですが、実は恐怖を意識させているのはもっと別のもの。土台の欠如です。基本的信頼が欠けているので、そうなってしまっている。この辺も、「時間差の罠」と言えるでしょう。

感情は、土台の部分からきている。でも、感情を受け取る自分(自我)は、今を生きている。土台はどちらかというと過去で、受け取るのは現在の自分。なので、どうしても、混同が生じます。

過去のことから生じているとはいえ「今の感情」だから、原因も対応も「今」でしてしまいます。





健全な人間は、自分のことを考えると共に、相手のことを考えます。自分のことを受け容れると共に、相手のことも受け容れる。自分を愛すると共に、相手のことも愛する。このような「お互い」というものがあるように思います。

一方、ナルシストは、自分のことしか考えられない。「相手」や「場」という意識が、希薄です。物事にあたる時には、「それがわたしにとって何の利益になるんですか?」「何の得になるんですか?」といった風になってしまう。

(この辺は、最近の風潮でもあるかもしれませんが)

この一見、「何の利益にもならないもの」「何の得にもならないもの」は、世の中に多くあるようです。しかも実は、それが社会の潤滑油として機能していることもある。一見くだらないものであるようなものが、実は人間関係や物事を円滑に進めるための役割を果たしていることもあるのです。

ということで、いちいち「何の利益になるんですか?」「何の得になるんですか?」と言っていたら、ギスギスしてしまうわけです。

けれどこの本のいうところのナルシストは、人間関係を利害関係に直結してしまう。利害関係のない人間関係を、考えられないようです。たとえプライベートであっても。





加藤さんは本の中で、次のようなフロムの言葉を紹介してくれています。(P107)


「一般に彼は他人の言葉を聞いていないし、ほんとうの関心を示さない」


厳密には聞いている。聞こえている。耳にも入っている。しかし、頭に入っているかどうかは怪しくて、実際、すぐに忘れるというわけ。音声としては受け止めても、相手の気持ちや実際に起こっている現象としては、受け取っているかどうか怪しいと。

「関心」の内、特に好きという感情を伴ったものを「興味」というらしい。

ナルシストと呼ばれる人は、その興味が極端に自分に向いている。そして、他人への興味が極端に欠けているようです。なので、他人の言葉が記憶に残らない。自分に関係することは覚えているけど、他人が何をしたとか、他人が何を好きかとか、そういうことは忘れてしまう。というか、そもそも興味がないと。


人は人を見て、学習するという。特に幼い頃は、身近な人を鏡・鑑(どちらも「かがみ」。後者は、手本という意味)とし、無意識的にいろんなものを学びます。

ということでこの時、「相手に興味を持つ」とか「相手を好きになる」とか、そういうことも学ぶ。身近な大人が「自分に愛を示す」「自分を愛する」、そこから学習し、他者を愛することを学ぶのです。

なので、他者を愛せないということにも、事情がありそうですね。





「話が通じない人」の心理 (青春文庫)




自己愛な人たち (講談社現代新書)






自分勝手は、相手のことを考えた時、自由になるのかもしれません。





<<「第4回 思い込みの激しさ」「第6回 思いやりと価値観のズレ」>>




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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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