ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
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NHK総合の大河ドラマ

「八重の桜」のレビューと感想。

第1話「ならぬことはならぬ」


<断固として事を行う時、人はみな、狂気ですけえ>


会津っ子と、什の掟。

八重、鉄砲と出会う。

容保公への恩。

覚馬、象山に入門す。



八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)



あるところの影響が、別の場所に及ぶことがある。

意外な場所で、思ってもみないことが起こる。

これが、世界がつながっている証明になるのかもしれない。


南北戦争では、多くの近代兵器が投入されたという。

そのうちのいくつかがやがて、日本へと渡る。

道具それ自体は、意志を持ちません。

勝手に何かすることもない。

ただ、それを人間が使うことで、世の中が大きく動くことがあるという。

新しい道具は時に、国をも動かす。

そういう意味では、拳銃も、インターネット(Twitter や facebook)も、そう変わらないのかもしれない。



嘉永四年(1851年)夏。

幼い八重(鈴木梨央)は、木の上にいた。若殿様の行列を確認するためです。

松平容保(綾野剛)公のお国入りでした。

行列の中には、八重の兄・山本覚馬(西島秀俊)の姿もあった。



父・山本権八(松重豊)は、砲術指南役。

そして、覚馬も西洋銃を使うようになっている。

八重は、自分も鉄砲を撃ってみたくてたまりません。

でも、権八には笑われるだけだった。

女は薙刀(なぎなた)をやっておればいいと。

それでもやりたいと食い下がると、ならぬことはならぬと叱られました。


でも、これであきらめるような八重ではありません。

もう、撃ちたくて撃ちたくてしかたない。



会津藩には、「土津公家訓(はにつこうごかきん)」というものがある。

土津公とは、会津松平藩の祖、保科正之のこと。

ご家訓は、絶対的な国是でした。


将軍家に忠義を尽くすことを第一とせよ。

他の藩の行動にならってはならない。

二心(主君に背く心)を抱くようであれば、それは我が子孫ではない。



会津藩の藩校、日新館。

藩士の師弟は、10歳で日新館に入学する。

学問と武芸の鍛錬に励みます。

それもすべて、強い武士となって、将軍家をお守りするため。

会津藩のアイデンティティーは、そこにあるようでした。

それが自分だと、胸を張って誇る。

人間は忠義と同一だった。



子どもたちが復唱する。


「年長者(年上の人)の言うことに、背いてはなりませぬ」

「年長者には、お辞儀をしなければなりませぬ」

「うそを言うてはなりませぬ」

「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」

「弱い者をいじめてはなりませぬ」

「戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ」

「戸外で女と言葉を交わしてはなりませぬ」

「ならぬことはならぬものです」



子どもたちは、6歳で「遊びの什(じゅう)」に入り、まず「什の掟」を学ぶという。

日々、共に遊んで、絆を強めます。


会津藩番頭の西郷頼母(さいごうたのも:西田敏行)もまた、ここで学び、友たちと絆を深めた。

頼母によると、会津の親は子どもたちに、喧嘩をするなとは言わないという。

その代わり、逃げ隠れすると、ものすごく叱られる。

「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」

童の遊びも、鍛錬のうちなのです。



追い鳥狩りが近いこともあって、藩士たちは張り切っています。

追い鳥狩りとは、藩を挙げての軍事総練のこと。

若先生と呼ばれる覚馬は、若い者たちに拳銃の指南をします。


そして、その日が来ました。

八重も大勢の人に交じって、見物する。

その目の輝き方といったら、もう。

憧れに満ち溢れている。

八重はきっと、この中に交ざりたい。


一番鳥を挙げるのは、誰か?

八重たちは、前の方で見物することに。


勢子(せこ)により、キジが放たれました。

殿に一番鳥を献上するため、みな気合が入ります。

有力とされるのは、西郷頼母、佐川官兵衛(中村獅童)。

大砲奉行の林権助(風間杜夫)は、覚馬に期待します。


八重は、木の上に登りました。

ここなら、邪魔にならないはず。

興奮する八重は、上へ上へと登った。

山川与七郎(里村洋)も、負けじと登ります。


やがて、思わぬことが起きてしまいました。

八重が木から落ち、それに頼母の馬が驚いて、急停止してしまったのです。

ちょうど、頼母がキジを仕留めようとした瞬間でした。

そのせいで頼母は仕留めそこね、その間に、官兵衛が一番鳥を挙げることに。


木から落ちかけた八重でしたが、草履が落ちただけで助かりました。

奇跡的に、下の枝に引っかかったのです。

が、狩りを邪魔された頼母は激怒。

覚馬も駆けつけ謝罪しますが、怒りは収まらない。

やがて、与七郎たちも戻り、謝ります。

競い合って木登りしたのが誤りだったと。


八重の窮地を救ったのは、容保公でした。

競い合って登っていたのなら、それもまた子どもたちの戦。

それに、武士らしく名乗って出た。

卑怯な振る舞いはしてないと。


頼母は八重たちに、しっぺいの刑を申し付けました。

今でいう「しっぺ」ですね。

人差し指と中指で、ペシャンとやる。



家に帰った八重は、蔵に放り込まれた。

当然、飯抜きです。

が、覚馬がこっそり、握り飯を持って来てくれました。


八重は泣いた。

叱られたからではなく、恐ろしくなったのでもなく、覚馬のやさしさに打たれたからでもない。

それは、容保公に武士らしいと言われたから。

卑怯じゃないと言われたから。

八重は心から、容保公のお役にたちたいと思いました。

いつか強くなって、若殿様に御恩を返したい。

八重は覚馬に、「鉄砲さやりてえ」と涙ながらに訴える。

その小さな頭を、覚馬はやさしく なでます。



嘉永五年(1852年)一月。

出会いが待っていました。

八重と覚馬は、ふたりの男と出会った。

ひとりは、肥後藩士の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう:宮内敦士)。

もうひとりは、長州藩士の吉田寅次郎(小栗旬)。

後の、吉田松陰です。


寅次郎は、愉快な男だった。

愉快に凧を揚げ、愉快に酒を飲む。

何にでも興味を示し、実際にやってみる。

まるで、好奇心の塊です。


ふたりの目的は、北方の守りの視察でした。

奥羽に、異国船が出没しているらしい。

この後、津軽まで行くつもりだという。

雪の山越えを狂気の沙汰だと言う覚馬に、寅次郎は言った。

「断固として事を行う時、人はみな、狂気ですけえ」


宮部も、寅次郎も、憂国の人でした。

今のままでは、この国は危ない。

江戸の海は、閂(かんぬき)を掛けない門も同然。

簡単に、異国船に破られてしまうという。



その予想が、現実となりました。

嘉永六年(1853年)六月。

ペリー率いるアメリカ合衆国艦隊が、浦賀に来航したのです。

そして、開港か否か、幕府に迫ってきた。

期限は、1年。


そんな中、覚馬が江戸に留学することになりました。

林権助の推挙だった。

最新の西洋砲術を学ばせるためです。


覚馬が訪ねたのは、佐久間象山(奥田瑛二)。

が、いきなり入門を断られます。

象山先生は、偏屈というか、かなり難しそう。

何度頼んでも、取りつく島がありません。


しかし、覚馬は、象山とのやり取りで気づきました。

足りないのは、大筒云々より、その基になる知識。

異国を知る目だと。

象山は言った。

仕組みさえ理解すれば、西洋の技術は日本人にも作れると。

実際、オランダの辞書を解読し、象山は日本初のテレグラフ(電信機)を作っているのです。


出直そうとした覚馬に、象山は入門を許しました。

分かったのなら、それでいい。



佐久間象山の塾には、興味深い人がたくさんいました。

江戸弁の勝麟太郎(生瀬勝久)、蘭学を極める出石藩士の川崎尚之助(長谷川博己)。

吉田寅次郎の姿もある。


象山先生の講義に、覚馬は衝撃を受けた。

誠の攘夷は、夷の術をもって、夷を防ぐこと。

西洋の技術を学ぶことで、西洋の脅威を退けようというのです。

まずは海軍を作り、歩兵隊も整備する。

彼らは、侍の仕組みを変えようとしていました。

西洋の技術と、東洋の道徳の融合。

それが象山の目指すところだった。


覚馬は、己の目が開かれてゆくのを感じた。



その頃、八重は、こっそりと銃について勉強していました。

見つかると父・権八に叱られるので、隠れてやる。

まずは、本の写し書きからです。

何が書いてあるのかよく分からなかったけど、自分からやる勉強は楽しかった。


覚馬も江戸で、勉学に励みます。

遅れを取り戻すべく、寝る間も惜しんで写本する。

少しでも多く学んで、会津に持ち帰るつもりです。



嘉永七年(1854年)一月。

再び、ペリーが来航しました。

海防参与の徳川斉昭(伊吹吾郎)は、断固として開港に反対する。

斉昭は、強硬な攘夷論者なのです。

が、評議では、掃部頭(かもんのかみ)・井伊直弼(榎木孝明)らが、和親を受け入れるべきだと主張。

容保も、今 戦を始めるのは無謀だと進言した。

こうして、開国が決まりました。

しかし、斉昭との間に、遺恨が残ったようにも見えた。



覚馬は、江戸湾へと走りました。

この男、よく走る。

初めて見る黒船は、想像以上だった。

覚馬も尚之助も、度肝を抜かれます。

それはまるで、空にそびえる黒金の城 海に浮かぶ城だった。


そんな脅威を目の前にした覚馬でしたが、同時に決意しました。

あの船に、乗り込む。

あれこそ、西洋の技術の塊だ。

それを吸収すれば、日本は…。




独学で鉄砲を学び始めた、八重。

世界に目を向け始めた、覚馬。

激動の時代の中で、何を見るだろう?





新島八重 愛と闘いの生涯 (角川選書)





【感想】


まず、絵がきれい。

ホコリや泥など、NHKらしい演出が随所に見られます。

細かい、細かい。

CGも美しい。

お金、人、時間が、十分にかけられている印象。

同じことは、なかなかやれんでしょう。


ちいちゃな八重の会津弁も、かわいい。

しっかりした俳優さんばかりで、安心して見れます。

ああ大河! という感じがする。


ここに人間の生き様が加わるわけだから、楽しみで仕方ありません。

これは、一年を通して楽しめそうだと、大いに期待します。





「一見は百聞を超ゆ。知者は機に投ずるを貴ぶ│八重の桜(2)」>>



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「八重の桜」のレビューと感想。

第2話「やむにやまれぬ心」


<そいくらいの熱がなきゃ、ないも ものには なりもはん>

<一見は百聞を超ゆ。知者は機に投ずるを貴ぶ>


鉄砲に熱中する、八重。

黒船にとりつかれる、覚馬。

そして、佐久間象山は…。



八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)



夜こっそり、八重(鈴木梨央)は鉄砲を撃つ真似事をしました。すると、父っさまの権八(松重豊)に見つかってしまった。本を書き写した物も見つかり、とがめられます。

それでも、八重は訴えた。「わたす、やっぱり鉄砲さやりてえ。お父っつぁま、教えてくなんしょ」

でも、権八は駄目だという。ならぬことはならぬ。せっかく書き写した物も、没収されてしまいました。



八重たちは、習字をならっています。その手本とされているのが、「女今川」。これは習字の手本として使われるだけでなく、女性のたしなみについても書かれた教訓書・教養書。

おっと、めずらしく八重さんが習字に熱中しています。と思ったら、字じゃなく、絵? それも、鉄砲か? 八重は先生に、「ちゃんと、しっせえ!」と叱られてしまいました。

前に書いたものは権八に取り上げられたので、八重は覚えている分だけでも書き写そうと頑張っていたのです。でも、それも、先生に破り捨てられてしまいました。この当時、女は仮名の読み書きさえできればいいと言われていた。

とはいえ、鉄砲の本は難しくて仕方ない。八重は幼なじみの山川与七郎(里村洋)に、分からない字を聞いてみた。すると、「蓋(ふた)」だと教えてくれました。これで八重は、火蓋という言葉を覚えた。「ありがとなっし」と礼を言う八重を、与七郎はおかしな女だと思う。



嘉永7年3月。幕府は日米和親条約を締結。下田と箱館の開港が決まりました。傲慢なペリーも頭を下げたということで、佐久間象山(奥田瑛二)の名は一気に世に知れ渡ります。おかげで、塾は来訪者でごった返していた。

黒船を見て以来、覚馬(西島秀俊)はそのことで頭が一杯です。でも、その黒船は下田へと行ってしまった。このままだとやがてアメリカに帰ってしまい、そうなるともう手も足も出ません。

と、塾で騒ぎが起こりました。飼っていた豚が逃げ出したのです。皆が大騒ぎする中、薩摩訛りの男が、豚を捕まえた。豚を逃がしたのは、新島七五三太(小林海人)という男の子でした。聞くと、豚をスケッチしていて、かんぬきを掛け忘れたらしい。

見ると、その絵というのが大そう上手に描けている。「熱中すると、どうもいけません」と、七五三太 少年は反省しきりです。薩摩の男は 七五三太(しめた)だけに、シメたろか! とは言わずに 「よか、よか」と笑った。「そいくらいの熱がなきゃ、ないも ものには なりもはん」

この男は、薩摩の西郷吉之助(吉川晃司)。飲み込みが早く、地理にも昨今の情勢にも詳しい西郷に、偏屈な象山先生も一目置きます。

象山は、下田開港には反対でした。開港するなら、横浜がいい。江戸に近すぎるという意見もあるが、それだけに警護が厳重になるし、何より、間近で黒船を見ることができる。異国の技術を吸収し、それによって日本を守るという象山の考えに合致します。



覚馬は、下田に行き黒船に乗ることを決意していた。捕まれば死罪。それでも覚馬は、見たくて見たくて仕方ありません。川崎尚之助(長谷川博己)が無茶だと言うと、吉田寅次郎(小栗旬)の言葉を引用して言いました。<断固として事を行う時、人はみな狂気だ>。

覚馬がそこまで思うには、訳がありました。会津には海がない。なのに、蝦夷や上総など、海の警護を任されています。そして今は、品川砲台。いざとなったら、先陣を切って、黒船とも戦わねばならない。会津は強いが、敵の力を知らねば、戦い様もありません。

1つはその、会津のため。そして、もう1つ。横浜で見て以来、覚馬は黒船に取りつかれてしまったのでした。他のことがもう、目に入りません。

すると、尚之助は、私も行きますと言い出した。乗船を掛け合うなら、蘭語が必要。自分が大いに役立つと。それに、蘭学者の端くれとして、西洋の技術の塊を、ぜひこの目で見たい。また、覚馬さんと一緒ならうまくいく気がすると、笑いました。

こうして、尚之助の心にも火がついた。しかし、今すぐ出発というわけにはいきません。国禁を犯すのだから、会津に迷惑を掛けないようにしないといけない。家族に対しても、そうです。藩を抜けるお許しをもらい、家も勘当してもらわないと。

さて、それをどうしたものか。

すると、尚之助が聞いた。「覚馬さん。会津のために会津をお捨てになるんですね?」

でも、覚馬は違うと言う。脱藩しても何も変わらない。俺はいつまでも、会津武士だと。



八重は初めて、キジ撃ちに同行させてもらいました。ひょっとしたら、とうとう鉄砲を教えてくれるのだろうか? そう思いましたが、違いました。権八が教えたかったのは、鉄砲の厳しさだった。八重の目の前で、権八はキジを仕留めました。命を奪った。

弾に急所を射抜かれれば、キジであろうと人間であろうと必ず死ぬ。鉄砲は武器で、殺生する道具だ。戦になれば、人を撃ち殺す。的撃ちは面白く見えるかもしれないけど、的を撃ち抜くということは、人間の心の臓を撃ち抜くことを意味する。権八は八重に、そう話します。

恐れることを知らず真似だけしていれば、いつか己の身が鉄砲に滅ぼされる。だから、砲術をやる者は、学問と技を磨かねばならない。何より、立派な武士でなければならない。

つまり、おなごの八重には到底無理だと。背負いきれない。鉄砲の真似事は二度とするなと、八重は権八に強く言いつけられてしまった。

何も言い返せない、八重でした。



落ち込む八重に、母の佐久(風吹ジュン)は言った。糸繰りは、何のためにやる? それは、機(はた)を織るため。一家の着物をそろえるのは、おなごの大事な役目だ。

では、鉄砲は何のためにやるのか? 鉄砲を撃つのは、おなごの役目じゃない。それでもやらねばならない訳が八重にはあるのかと、やさしく聞きました。

八重は、何も答えられない。ただ、鉄砲を撃つ真似をしていると、その先に覚馬の姿が見えるような気がしました。



象山が、奉行所から呼び出しを受けた。正装して出向きますが、心なしか表情が曇っています。「すぐに戻る」、そう言って出たものの、嫌な予感がしてたまりません。

実は半月前、吉田寅次郎が黒船に乗り込み、アメリカへの密航を企てていました。しかし、その試みは失敗に終わり、自首した寅次郎は伝馬町の獄舎に入れられていた。

<一見は百聞を超ゆ。知者は機に投ずるを貴ぶ>。百回人から聞くよりも、一回自分の目で見た方がよく分かる。知恵の優れた者は、その時という瞬間(機)をうまく利用するものだ。本当の知者は、まさにその時という瞬間、迷いなく飛びこむ。

この送別の詩を、象山は寅次郎に送っていました。これを、奉行所は問題視したのです。密航をそそのかしたのは明白であると。

しかし、象山は退きませんでした。開港した今、諸外国の事情を探索することこそ急務であると訴えかけます。寅次郎も、国を思うがこそ、渡航を企てた。そんな寅次郎を捕えて罰するなど「何たる大馬鹿か!」と、逆に叱りつけました。

半年後、ふたりに蟄居(ちっきょ:自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させること)を命ずる判決が下りました。こうして象山は松代に、寅次郎は萩へと、護送された。



主がいなくなった塾で、勝麟太郎(生瀬勝久)は象山直筆の書を見上げていました。<海舟書屋>。これを自分の塾に掲げるつもりです。勝は、覚馬と尚之助に言った。「幕府は、おおべらぼうよ! この国が変わるために一番役に立つ人間を、罪人にしちまった」

けれど、日本という小舟はもう、世界という海に漕ぎ出した。今に誰もが、大手を振って海を越えて行くようになると予想します。そんな時代を、俺たちが作るんだと決意する。西洋の技術と、東洋の道徳で。

そう、象山が失脚させられても、それを受け継ぐ者たちがまだまだいるのです。人を育てるとは、そういうことだ。



松平容保(綾野剛)には、照姫(稲森いずみ)という義姉がいる。照姫も養女で、容保よりは3歳年上になります。照姫は豊前中津藩の奥平昌服に嫁いでいましたが、離縁。会津へと戻って来ました。

幼い頃から、照姫は、容保をよく世話したという。容保と照姫、その絆は深いようです。

ふたりには、敏姫(中西美帆)という義理の妹がいた。敏姫は、松平容敬(中村梅之助)の実の娘。この3名がこれから、どのように関わっていくのでしょうか。



安政三年(1856年)秋。覚馬は、会津に戻りました。そして、成長した八重(綾瀬はるか)に再会する。11歳になった八重ですが、お転婆は相変わらず。米俵を運ぶ力比べに参加し、男をしのぐ活躍を見せていました。

覚馬の帰郷を、八重は顔をクシャクシャにして喜んだ。江戸留学が評価され、覚馬は日新館の砲術教授になりそうだという。これで砲術の家の面目が立つと、権八は喜びました。

そんな権八が頭を悩ませるのが、八重のことです。鉄砲を習いたいと、八重は退かない。砲術の家に生まれて 私だけやれないのは口惜しいと。

権八は、八重が隠れて鉄砲の勉強をしていることを知っていました。天井をいじると、山のような写し書きが落ちてくる。何も教えないのに、鉄砲の勘所はつかんでいるのだという。これはもう、天性です。やはり、鉄砲の家の娘なのでした。

それだけに、権八は悩みます。八重は力もあるし、胆力でも男に負けない。仕込んだら、ものになるだろう。だけど、それが何になるのか? 今でさえ世間から外れているのに、その上鉄砲までやったら、物笑いの種になる。

ヘボならまだいい。しかし、いい腕になったら困る。おなごが鉄砲の腕を振るう場所など、どこにもないのです。いずれ、切ない思いをするに決まってる。それを思うと…。

覚馬はしばらく、八重が描いた写し書きを見ていました。そしてやがて、八重も同じだと言った。やむにやまれず描いている。



翌朝、覚馬は八重を呼びました。練習場で、鉄砲を構えてみろという。驚きつつも、八重は鉄砲を手にしました。初めての重さを感じつつ、的に向かって銃口を向けます。

覚馬は言った。「重いか? それが鉄砲の重さだ。命のやり取りする、武器の重さだ」「にしは侍の娘だ。始めっと決めたら、極めるまで、引ぐことはゆるさねえ。弱音吐ぐことも、ゆるさねえ。また、極めたところで、誰が褒めてぐれるということもねえ」「嫌なら今すぐ、銃を置げ」

でも、八重はまっすぐ的をみつめるだけだった。あるいは、的よりもずっと先を見据えていたのかもしれない。

「覚悟はいいな!」

八重は銃を構えたまま、はい! と返事しました。





我ニ救国ノ策アリ  佐久間象山向天記





【感想】


やむにやまれぬ。

やめようとしても、どうしてもやめられないこと。

理屈を超えて、つき動かされること。

それは時に、苦しいことだったりするけれど、どうしようもないのだから仕方ない。

服従でもなく、反発でもなく、自然と出てくるものなら、しょうがない。


雨が降るのを、人は止められない。

空腹は少しは我慢できるけど、根本的になくせないし、また、なくすべきでもない。

欲はそれに呑まれると厄介だけれど、よい付き合いをすれば問題ないし、むしろ人生を豊かにしてくれる。


やむにやまれぬこと。

それを時に人は、本物と呼ぶ。

それが本物なら、あとは育てるだけ。

どうしようもないことは、それを前提にしてしまえばいい。





<<「鉄砲さやりてえ│八重の桜(1)」
   「急ぐ覚馬、壁にぶつかる│八重の桜(3)」>>



会津に、尚之助が来る。

藩に改革を訴える覚馬ですが、果たして通じるだろうか?

覚馬の戦いが始ります。


次週、第3回「蹴散らして前へ」。



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「八重の桜」のレビューと感想。

第3話「蹴散らして前へ」


<世人 なんぞ知らん 英雄の志>

<何かを始めようとすれば、何もしない奴らが、必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め!>


藩政改革の志を持つ、覚馬。

しかし、藩士たちとの溝が深まります。

一方、八重と尚之助の仲は…。



八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)



安政四年(1857年)春。日新館 西洋砲術指南所。

山本覚馬(西島秀俊)は、ゲベール銃についての講義を行っている。って、覚馬以外、誰もいない?

「よす! 支度はしっかり、整った!」

覚馬は、講義の練習をしているのでした。やる気満々ですね。


でも、それを覗き見している与七郎(玉山鉄二)たちは言います。

夷狄(いてき)の鉄砲なんか、習う者がいんだべか? 武士の本文は、弓、槍、刀だ。

覚馬と会津藩士では、意識の差があるようです。



さて、八重(綾瀬はるか)さんですが、にこにこしながら勉学に励んでいます。といっても、鉄砲のお勉強。お針の稽古では、お師匠様に叱られる日々。こちらは、苦手なようですね。

大きな桜の樹に登り、八重は鉄砲の本を読む。と、芋虫が落ちてきたので、思わず本を手放してしまった。この辺は八重さんも、女の子か。と、そこにお侍さんが通りかかりました。本を拾い上げ、八重の方を見上げます。

それは、川崎尚之助(長谷川博己)でした。尚之助は覚馬が蘭学所を開くと聞き、訪ねてきたのです。といっても、それは「いずれ」であって、まだ開設の許しは下りていません。

みなで尚之助をもてなしますが、八重だけは仏頂面。大事なお客様が来たということで、砲術の講義がお休みになってしまったのです。木に登ることを兄らに猿呼ばわりされたりと、八重は口をとがらせる。

覚馬には、やってみたいことが山のようにあります。語学に砲術、舎密術(せいみじゅつ:化学の旧称)に医術。大阪の適塾から、昔なじみの古川春英も呼び寄せたい。西洋式の調練も、ぜひ やりたい。

そんな覚馬に、父・権八(松重豊)は やんわりと言った。「そう急ぐな。こごは会津だ。江戸と同じに考えだら、うまぐいがねえぞ」

「万事、心得ておりやす」と答えた覚馬でしたが、権八の思いはどこまで伝わったやら。権八の表情は冴えません。



八重は、機織りの手伝いをします。でも、砲術のことが気になって、糸が緩んでしまう。それに、昼間のことも耳に入っています。そこで、母・佐久(風吹ジュン)は、八重に言った。

「お針さ疎かにするようでは、砲術はやめるよう、兄様(あんつぁま)に言わねばなんねえな」。

そんなあ! と声を上げる、八重でした。



尚之助は、佐久間象山(奥田瑛二)から文を預かっていました。<人材を得ることが第一にて候。迂遠(うえん)に似候(にそうら)えども、教育よりほか道は御座なく候>。人材を得ることが第一でしょう。遠回りに見えますが、教育よりほか道はありません。

蘭学所のことを、象山は喜んでくれたらしい。松代の聚遠楼(しゅうえんろう)で、蟄居(ちっきょ)も悪くないと、尚之助に話しました。書を読み、思索する時間がたっぷりある。一段と学問が深まったとまでいう。

日本の中枢から離れた象山ですが、それだけに天下の形勢がはっきり見えると、尚之助に話しました。「どうだ? 私の描いた未来図が、次々とまことになっておるではないか」「世人 なんぞ知らん 英雄の志」「かのパナポルテ(ナポレオン)も、流罪の憂き目にあっておる」「いずれ必ず、天下が私を呼び戻す時が来る」

覚馬に伝えろと、象山先生は言った。「何かを始めようとすれば、何もしない奴らが、必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め!」

その言葉を伝え聞いて、覚馬は一層、燃えました。前に進んでやろうと思う。

そして、尚之助もまた、本気でした。出石藩から暇を頂いてきたと、笑って話します。ひも付きのままでは会津で働けないからと。慌てる覚馬に、戻ることは考えてないと、澄まして言います。

「覚馬さんがやると言うなら、蘭学所はできるに違いない」「ぐずぐずして、また誰かに先を越されては、つまりませんからね」

細身に見える尚之助ですが、中身は豪胆なようです。



早朝から、覚馬による鉄砲の指南が行われていました。八重は銃を構え、空砲を的に向かって撃ちます。でも、撃つ瞬間に目をつむってしまうので、覚馬にこっぴどく叱られてしまう。

さらにその様子を見ていた尚之助に、笑われてしまいました。



蘭学所開設の許可は下りました。しかし、尚之助の教授方就任は、認められませんでした。

ある日のこと、山本家に、林権助(風間杜夫)がやって来た。権助は覚馬の銃の腕や学問について褒めますが、同時に、やんわりと注意した。

何事も、程度というものを、わきまえないといけない。蘭学所を開くのも、よそから人を呼ぶのも、会津のためになる。けれども、あまりに急ぎすぎると、上がつむじを曲げてしまう。天狗になったと、叩かれてしまう。

「若え者は、とかく事を急ぎすぎる。ちっと、手綱さ引いてやれ」。そう、権八に助言しました。



突然の雨に、八重と尚之助は雨宿り。そこで八重は、蘭学所があまりうまくいってないと聞かされた。弟子が集まってないのです。わたすなら、まっ先に習うのに。八重がそう言うと、尚之助は笑いました。

これにカチンとくる八重でしたが、尚之助はうれしくて笑っているのだという。「八重さんは、いい腕をしている。さすが覚馬さんの仕込みだけあります」

意外な言葉に、八重は「ありがとなっし」と頭を下げました。そして、目をつむってしまう癖について、助言を求めた。いっそのこと、糊(のり)で はっつけてしまった方がいいだろうか?

尚之助はまた、吹き出してしまいました。そして、助言する。まずは目のことは忘れて、弾の行方を追うことだけを心掛けるといい。「あなたなら、きっとできます」と、穏やかながらしっかりと言います。

と、そこに、与七郎が通りかかりました。互いに挨拶しますが、尚之助のことが気になっている様子。何か言いたそうでしたが、仲間に急かされて 行ってしまいました。ただ、自分の番傘だけは置いて。



同じ雨の中、覚馬は悶々として歩いていました。実のところ、目は開いているが、前は見えていない。尚之助のことは、何度願い出ても認められない。蘭学所の開設は早計だったと言われる始末。古川春英の件も、お取り下げになってしまいました。

どうしてこう、分からないのか? 分からず屋どもが! と、怒りが口をついて出ます。

と、傘と傘がぶつかり、覚馬の傘が飛んでしまいました。しかも、相手は謝ろうとしない。覚馬が謝罪を求めると、相手は西洋かぶれの足軽がっ! と罵りました。おまえは鉄砲が一番だと吹聴しているようだが、鉄砲は足軽の持ち物だ。なのでお前も足軽に違いないと、嘲笑します。飛び道具など、刀も槍も使えない腰抜け武士の使うものだと。

誇りを傷つけられた覚馬は、相手を突き飛ばしてしまった。相手は刀に手をかけ、一触即発の事態に。



会津藩武芸師範、黒河内伝五郎(六平直政)。その道場に、覚馬が現れました。槍の試合がしたいので、御検分を御願いしたいと。相手は、先ほどのふたり。ひとりずつ、覚馬が相手します。

もろ肌を脱ぎ、槍をかまえる覚馬。隆起した筋肉に、日々の鍛錬が浮かび上がる。

まずは槍を叩いて牽制。やがて、相手の足を払うと転ばせて、腹に一撃。覚馬が勝利しました。続いての者は、手強いようです。力比べでも、覚馬に引けを取りません。が、それでも覚馬は胸を突き、相手を壁に叩きつけた。

黒河内から それまで! の声がかかると、覚馬は槍の柄を どんと床に突いて、言った。「分かったか! 鉄砲は腰抜げが使うものではねえ! 武士の表道具だ!」

試合を見ていた与七郎らも、思わず息をのみました。覚馬がまるで、鬼神のように見える。



武士の面目を保った覚馬でしたが、試合後、西郷頼母(西田敏行)に説教されます。「遺恨を含んで、槍を振るうやつがあっか! この馬鹿もんが!」。少しは控えるようにと、諭す。

にしは鉄砲の強さを言い立て過ぎる。みなは御先祖様代々、弓・槍・刀で奉公してきた。それを鉄砲こそ最強だと言われれば、誰だって腹を立てるのが道理だろう。反論しようとする覚馬に、猪が噛みつくような顔をするなと戒めました。

「覚馬、聞ぐ耳を持て」「声高に、鉄砲は強い! 鉄砲は強い! 言ってたんでは、敵が増えるばっかりだぞ」



その頃、幕府は、下田に滞在中の駐日総領事 ハリスの対応に追われていた。ハリスは大統領の親書を奉呈し、通商条約の交渉に入ろうとしている。


一方、昨年の秋、婚儀が執り行われ、敏姫(中西美帆)は松平容保(綾野剛)の正室となっていました。

離れて暮らすのを寂しがる敏姫に、照姫(稲森いずみ)は、「文で、歌のやり取りをなさりませ」と助言します。歌を詠んでいる時には、歌の中に殿さまの御姿が浮かびます。離れておいででも御寂しくありませんよと、微笑みました。

敏姫は、照姫が離縁した理由を気にかけます。子どもが授からなかったと聞いているが、それだけだろうか? 姉上は、どなたのことを想って、歌を御詠みになるのだろう?



覚馬が、藩庁に呼び出された。鉄砲入れ替えの儀は、却下。洋式調練の件も、駄目。国を思う覚馬は、家老の萱野権兵衛(柳沢慎吾)らにまで、意見してしまいます。薩摩をはじめ、西国諸藩は軍制改革を進めている。会津が遅れをとるのは…。

と、同席していた頼母が、覚馬を制しました。

我慢しようとした覚馬でしたが、頑固な家老たちに対し、つい声を上げてしまった。「古い…」「兵制改革のこと、蘭学所のこと、今一度、殿の御裁可を仰いでいただきとう存じまする」

今伝えたのが主命だと言われると、ついに覚馬は声を荒げてしまう。

「そんなはずはねえ! 殿は黒船をよく御存知だ! 弓矢で戦うだの、蘭学は要らぬだの、思(おぼ)し召(め)されるはずがねえ!」「あなた方は、世界を知らぬ! まるで…まるで井の中の蛙(かわず)だ!」

しまったと思った時には、もう遅い。

翌日、覚馬に処分が下りました。禁足です。無期限の外出禁止。



猪突猛進した覚馬でしたが、今はぼんやりと過ごす日々。家のことを考える権八は、二男・三郎を本格的に仕込むことを考えようとしていた。

兄の背中を寂しそうに眺めた八重は、尚之助に言いました。「わたすには、わがんねえ。兄様(あんつぁま)も尚之助様も、何も間違ってねえのに。なして? なして罰を受げるのがなし?」。泣きそうになりながら、憤ります。

尚之助は言いました。「八重さん。ままならぬこともあるんですよ、世の中には」。うつむいて座る八重に、さらに言います。「頑固ですからね、会津は」

藩士も会津なら、覚馬も会津。頑固と頑固がぶつかるので、なかなか思い通りにはなりません。それに、八重もまた会津だ。



八重は覚馬に、火薬筒パトロンを見せました。尚之助が手ほどきし、八重が作ったものです。「兄様、この弾、撃っでみてくなんしょ?」、八重にそう言われた覚馬でしたが、気が乗らないようでした。

すると、八重が言った。「では、わたすが撃ってまいります」

そのまま行かせた覚馬ですが、しばらくして慌てて起きた。さすがに危ない。やめろと覚馬が駆けつけますが、既に八重は純を構えています。「わたすは続けやす!」と言い、的に照準を合わせる。

「人に笑われでも、かまわねえ。兄様がもうあきらめると言っても、わたすはあきらめねえ。鉄砲を極めるまで、ひとりでも続けやす!」

八重は引き金を引いた。ドスンと音がして、的が揺れました。

それは、初めて撃つ実弾だった。それが見事、的の真ん中に命中しています。「当たったな!」と、覚馬は笑う。力が抜けてしゃがみ込んでしまった八重も、笑いました。

覚馬は、八重と尚之助に笑いながら言った。「よし! 蹴散らして、前に進むか!」。どこかに流れてしまっていたエネルギーが、また戻って来たようです。



この年の秋、ハリスは江戸城の徳川家定(ヨシダ朝)に謁見。この家定は幼い頃から病弱で、一節では脳性麻痺だったともいわれる。そのため、幕政は老中が主導していました。

家定には世継ぎもいなかったため、将軍後継に一橋慶喜(小泉孝太郎)を据え、政務を代行させようという建議が持ち上がっていたという。慶喜は水戸の徳川斉昭(伊吹吾郎)の実子で、その英才ぶりは世に知られていた。



さて、覚馬と尚之助ですが、銃の改良にとりかかろうとしていました。新式銃を設計する。八重はその傍で、勉強の日々です。

時代は本格的に、うねり出そうとしている。

その中で人は、どう生きるだろうか?





八重の桜 一



山本覚馬(かくま)  知られざる幕末維新の先覚者 (PHP文庫)





【感想】


正しいか正しくないかでいえば、おそらくは覚馬が正しい。

でも、実際はどうかというと、状況は悪くなってしまいました。

急いだ結果、遅れてしまった。

こういう布置は、現実にたくさんありそうですね。


分かる者は危機感を感じ、どうしても急ぐ。

でも、それを知らぬ者は、違うようです。

危機を感じるどころか、ムッとして反発する。


でも、象山に会うまでの覚馬も、そんなに変わりませんでした。

そして、我々だって、そんなに変わらない。

何かしらのそれを知って目が開くまでは、きっとそうなんでしょうね。


覚馬は他の藩士たちより、ずっと先に行ってしまった。

なので、導くためにはきっと、待つことが必要だったのでしょう。

急げと怒鳴るより、来るのを待てばよかった。


でも、なかなかできないんだなあ。

これは、難しいよ。

時が満ちるまで、待つしかありません。


本当に正しければ、時は来る。

象山先生も、その時を待っているようです。

今はまだ、煮ている途中。





<<「一見は百聞を超ゆ。知者は機に投ずるを貴ぶ│八重の桜(2)」
   「井伊直弼の本心│八重の桜(4)」>>



覚馬がついに認められる?

さらに、嫁まで。

一方、幕政は混乱。

星の示すところは?



次週、第4回「妖霊星」。



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NHK総合の大河ドラマ

「八重の桜」のレビューと感想。

第4話「妖霊星」


<もはや、古きよきものを守るだけでは、立ちゆかねえ。変えるべきは、変えていがねえと>

<命を捨てる覚悟なくては、国事には当たれませぬ>


急ぎすぎた覚馬ですが、時代が彼を呼びます。

また、助けてくれる人もあった。

硬化していたものが動きだし、新たな縁も。

そして、空には ほうき星が流れた。



八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)



禁足の処分を言い渡された、覚馬(西島秀俊)。それを救ってくれたのは、西郷頼母(西田敏行)でした。安政五年(1858年)の二月。松平容保(綾野剛)に、頼母が進言してくれたのです。

通商条約調印が不首尾となれば、メリケンと戦になるかもしれない。「かがる折に、山本覚馬が兵制改革を献策したるは、武人として正しき振る舞い。禁足など、一刻も早ぐ、御解きになられますよう、御願い申し上げまする」

この頃、幕府中央は、将軍の後継者指名をめぐり、一橋派と紀州派の2つに割れていました。水戸の徳川斉昭(伊吹吾郎)は、実子・一橋慶喜(小泉孝太郎)を擁して、一橋派を形勢。これに、薩摩が協力します。一方、井伊直弼(榎木孝明)は、紀州の徳川慶福を推す。

異国と対峙せねばならぬ国難の時でありましたが、幕府は真っ二つに分かれようとしていた。



覚馬の禁足が、解かれることになりました。林権助(風間杜夫)からそれを聞かされ、権八(松重豊)らは安堵します。西洋砲術指南役と蘭学所教授には、共に復職。さらには、軍事取調役と大砲頭取に抜擢されるという。西洋の脅威を知る容保の取り立てでしたが、そこに頼母の訴えがあると聞き、覚馬はただただ感謝するのでした。

権助の話は、それだけではありませんでした。覚馬に、身を固めろという。またカッとして喧嘩しないように、嫁をもらえと。ちょうどいい縁談があるらしい。

覚馬の謹慎が解けて喜ぶ八重(綾瀬はるか)でしたが、盗み聞きしているのが見つかって、叱られてしまいます。と、権助は、八重の鉄砲の腕前が見たいと言い出した。

権助の前で、八重は鉄砲の腕前を披露。見事、的に命中させました。それに権助は、手ごたえを感じる。おなごでも鍛錬次第で、ここまでの腕になる。これなら、武術の心得が浅い者でも、西洋銃が使えれば、十分な戦力になると。

問題は、その銃の調達です。かなり、金がかかる。が、それは覚馬に案がありました。領内の鉄砲鍛冶の手を借り、安上がりに作ればいい。その道に長ける者として、覚馬は、川崎尚之助(長谷川博己)を紹介しました。

さあ、会津の兵制改革が進みはじめます。


っと、縁談の話ですが。相手は勘定方の樋口家の娘だという。権助が言うに、「西向いてろって言われれば、一年でも西向いているようなおなご」とのこと。

覚馬は縁談はまだ早いと言いかけましたが、先に権助に言われました。「小姑が鉄砲ぶっ放すような家に、嫁に来るようなおなごは、そうはおらぬわ」。そして、みなで大笑い。

そんなことを知らない八重は、鉄砲の腕を褒められ、「ありがとうごぜえやす」と頭を下げる。八重さん、凛々しいですな。



鶴ヶ城、番頭詰所。覚馬は頼母の前で、深々と頭を下げました。そんな覚馬を近くに呼び、頼母は小声で言った。「口が過ぎっと、敵を作んぞ」。愛ある故の、小言です。

頼母もまた、会津のことを一心に想う。イギリス・フランスが、清を攻めた。こうなると、我が国も安心してられない。戦となれば、藩屏(はんぺい)たる会津は、先陣を切ることになるだろう。とくれば、万が一の場合に、備えねばなりません。


出る杭は打たれる形で滞っていたものが、どんどん動き出します。古川春英(小市慢太郎)が蘭学所教授に任命され、医術を教えることになりました。また、尚之助の教授方就任も、御許しが出た。

頼母は、しみじみと漏らします。「いやあ、もはや、古きよきものを守るだけでは、立ちゆかねえ。変えるべきは、変えていがねえと」



それから間もなくして、うら(長谷川京子)が山本家に嫁いできた。籠(かご)かかれ~の、行列でき~の、権八と佐久むかえ~の、嫁ぎ~の。白無垢 着~の、互いに頭下げ~の、祝宴ひらかれ~の、嫁ぎ~の。

みなで酒を飲み、会津玄如節が歌われる。御馳走、お酒、歌、手拍子、みなで覚馬と うらを祝います。きれいな姉様を見て、八重も三郎(村山謙太)も、ワクワクした。


さて、教授方に就任することになった尚之助ですが、仕官の件だけは叶わなかったらしい。でも、身分や立場はどうでもいいと、尚之助は笑う。「ここにいれば、私のやりたいことができる。それで十分です」と。


嫁いできた うらですが、覚馬が筆を走らせている間も、じっと黙って控えています。覚馬が何を言っても、ただ「はい」と答える。林様の仰せの通りだと、覚馬は思った。西を向いてろと言ったら、一年でも向いているだろう。

そんな うらでしたが、覚馬の言葉に微笑んだ。「幾久しぐ、よろしぐ頼む」。幾久しく…、その言葉を噛みしめる、うらでした。



海軍伝習所の勝麟太郎(生瀬勝久)は、薩摩藩主・島津斉彬(林与一)のもとを訪ねていました。アメリカとの条約の件、幕府は調印すると腹をくくっているようですが、朝廷の御許しがまだ下りない様子。

開国について聞かれた勝は、こう答えました。「国を開き、進んで交易を行ってこそ、異国と互角に付き合えるものと存じまする」。斉彬も、同じ考えだという。異国と渡り合うには、日本はもっと強くならねばならない。

斉彬には、国に対する憂いがありました。幕府の役職は、譜代門閥で占められている。外様は、政には加われません。この慣例を、何とか変えることはできないか。門閥にとらわれず、有為の人材を登用してこそ、国は強くなれると。

その望みを一橋慶喜公に託していると、斉彬は話す。

が、勝はやんわりと断ります。「どなたが御世継ぎとなられても、天下のことは公明正大、公然と議せられるべきと存じまする」「筋の通った政が行われない国は、異国から侮られまする」

斉彬が向けた水を、勝は受け取らなかった。



その頃、西郷吉之助(吉川晃司)は、京にいました。慶喜を将軍継嗣(けいし:跡継ぎのこと)に擁立すべく、京の有力公家たちの斡旋に当たっていたのです。

薩摩が目指すのは、一橋慶喜をかついでの、公武親和。国をひとつにした後に開国し、富国強兵をはかる。これにより、西洋列強と渡り合おうというものでした。篤姫を13代将軍家定に嫁がせたのも、このためだといわれる。



薩摩の働きもあり、京の有力公家たちは、一橋派に協力。このまま進めば朝廷の推挙が得られ、慶喜が14代将軍に。松平春嶽(村上弘明)は、その手応えを感じていました。

ところが、安政五年の四月、井伊直弼が突如として大老に就任。時代は、春嶽の思い描いたのとは、反対の方向へと動きはじめました。



春が来て、八重たちは長閑(のどか)な日々を送っていた。川で、魚とりに興じます。そんな八重が、幼馴染の高木時尾(貫地谷しほり)に漏らした。みんな姉様のことを、よく働くいい嫁だと褒める。「んだげんじょ、私には、異国から来た船みてえだ」。もう2ヵ月になるのに、ほとんど口を聞いたことがない。うらはいつも黙って、働いているのです。

嫁ぐとはそんなものだと、時尾は言います。黙って夫と舅(しゅうと)に従うのが女の道だと、女今川にも書いてある。でも、八重は解せません。うちではみんな言いたいことを言うと話すと、時尾に、八重さんの家は他所とはちっと違うからと言われました。



安政五年(1858年)六月。時代がまた、動きます。幕府が、日米修好通商条約の締結に踏み切ったのです。江戸湾では、祝砲が響き渡りました。

これに、一橋慶喜は激怒。勅許を得ずに条約を結ぶとは、帝に対し不埒(ふらち)千万と、声を荒げます。しかし、大老・井伊直弼は、のらりくらりとかわすばかり。恐れ入り奉りますと口にしながら、そんな風には見えません。

一橋派らは、これを井伊直弼の独断と受け取りました。



翌日、徳川斉昭らが登城した。「彦根の赤鬼め、腹を切らせてくれる!」と、息巻きます。斉昭、息子で藩主の徳川慶篤(杉浦太陽)、尾張藩主・徳川慶恕(金子賢)で井伊直弼を囲み、詰問しました。

が、動じずに、直弼は毅然として答えます。清国を打ち破ったイギリスとフランスの艦隊が攻め込んでくるとの知らせがあり、アメリカとの和平を急ぐことになったと。早急に都に上り 違勅調印の件をお詫びしろと言われると、まことに仰せの通りにと従いました。

その上で、今度は直弼の方から切り出します。本日は、御三家の御登城日では、ありません。押しかけ登城は御法度であること、よもや御忘れではござりますまい。重い御処分覚悟で御登城された割には、さしたる話でもござりませんでしたな。

斉昭らは、返り討ちに遭った格好です。

翌日、徳川慶福を将軍の後継者に定めるとの、発表がありました。また程なく、斉昭には謹慎が、春嶽には隠居謹慎が、慶喜には登城停止の処分が下されました。

こうして、一橋派は、政治の表舞台から降ろされたのです。



そんな井伊直弼のもとを、容保が訪ねた。茶室でふたりは、語り合いました。そこで容保は、直弼の本心に触れることになる。

物事の筋目は通さないといけないと、直弼は言います。御家門であろうと、法に背けば、処分を受ける。その秩序が、国を治めるのだと。

なれど、厳しく出れば敵を作るばかりと、容保は返した。勅許を受けずに調印した件を、不敬だと非難する者もいる。そんな中での処分は、火に油を注ぐようなものです。

そもそも鎖国は幕府が定めた祖法(そほう:祖先から代々伝わる法)だと、直弼は言います。それに、天下の政は幕府が執り行うものと、朝廷から御一任をいただいている。「臨機応変の判断を誤り、国を滅ぼしては、かえって不忠となり申す」と、直弼は言った。無断調印の御咎(おとが)めは、我が身一心に背負えば済むこと。

宗観院柳暁覚翁大居士。直弼は、戒名を授かっていた。「命を捨てる覚悟なくては、国事には当たれませぬ」、そう笑ってみせる井伊直弼でした。



水戸藩に、朝廷からの勅書が下った。戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と呼ばれるものです。朝廷から水戸藩に直接。これは前例のないことでした。いくら御三家といえど、将軍の家臣。それが、幕府を蔑ろにして…。

これを受けて井伊直弼は、立ち上がることを決める。これを謀反とし、幕政を揺るがす者どもは根から断ち切ってくれると言わしめた。



その夜、容保は空に、妖霊星を見た。八重、覚馬、尚之助も、見た。鎌倉幕府が滅んだ時も、妖霊星が現れたという。覚馬はそれを心配しましたが、尚之助は迷信だと笑いました。そうだとは思いつつも、覚馬は言葉にはできない不穏な何かを感じるのでした。


その年の6月、長崎でコレラが流行り始め、瞬く間に広まった。そして、薩摩の島津斉彬の命までもを奪うのでした(毒殺との説もあり)。


時代が、また動く。

安政五年九月、水戸藩への密勅に関わった者たちへの、検挙が始りました。安政の大獄の幕開けだった。



安政六年(1859年)五月。会津でも、攘夷を叫ぶ者が増えるようになっていました。攘夷を唱える者の中には、覚馬の洋式調練や蘭学所を目の敵にする者もいます。八重は心配しますが、うらは存外、平気なように見えます。

男勝りな八重に対し、うらは おなごは男に口出しするものではないという教えを徹底的に守っているのです。夫には考えがあるのだろうから、何も口を出さない。ただ、信じるのみ。まるで、水と油。それでいて、両方、頑固にも見える。会津では、男も女も、筋金入りなのだろうか。

と、覚馬が大慌てで家に駆け込んできた。吉田寅次郎(小栗旬)が、江戸で取り調べを受けることになったのだという。ひょっとすると、安政の大獄に関わることか? しかし、寅次郎は萩の牢にいたはず。

信じたくはありませんが、不安を隠せない、覚馬たちでした。





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【感想】


危機が、改革を呼ぶ。

火急の要事が、若者を登用させる。

必要が、変革を促進させます。

が、同時に、中央では内部分裂が。


みな、国を想う。

よくしたいと願う。

ただ、方法と方向が違う。


方法と方向にこだわるので、人が割れ、国が割れる。

目指す先は同じでも、ルートが違う。

ルートの違いだけで、仲違いする。


互いの本心を知る機会さえあれば、また違ったろうか?

少し譲る心さえあれば、結果は異なっただろうか?

それは、分からない…。


日本で、破壊と創造が、はじまろうとしていました。

そこで人は、どう生きるだろう?





<< 「急ぐ覚馬、壁にぶつかる│八重の桜(3)」
    「松陰の死と桜田門外の変│八重の桜(5)」>>



攘夷派の手が、覚馬にも。

寅次郎の運命は?


次週、第5回「松蔭の遺言」。



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第5話「松蔭の遺言」


<天朝も、幕府も、藩も、要らん! ただ身一つで立ち上がればよい! 立ち上がれ!>

<至誠にして動かざる者は、未だこれ、あらざるなり!>


安政の大獄が、国に暗い影を落とす。

至誠の人、吉田松陰の運命は?



八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)



吉田松陰(小栗旬)は、筆を走らせる。<死は好むべきにあらず。また、憎むべきにあらず>。安政の大獄に関連し、幕府は松陰を江戸送致にした。今は、伝馬町の獄にいます。

松陰のことを心配した川崎尚之助(長谷川博己)は、横浜の勝麟太郎(生瀬勝久)を訪ねました。そこで、尚之助は驚いた。町が一変している。黒船を見に来た時には何もないただの漁村だったのに、今では賑やかな街並みが広がっています。

安政六年(1859年)七月のことでした。黒船とは、街並をも変えてしまうものなのだろうか。では、人は、どのように変わるのだろう?

土産物を買おうとしていた尚之助の前で、攘夷派浪士によって、外国人水夫が斬られた。攘夷とは、外国人を撃ち払って国内に入れないこと。通商条約が締結されたことで、彼らの中には、実力行使に出る者が出はじめていました。さらに大獄による締め付けが、それを加速させる。

幕府は、清を打ち破った外国に脅威を感じ、条約締結に踏み切りました。これは、日本を守るため。そして、攘夷派は、外国が日本に入ってくることに脅威を感じ、排斥しようとする。これも、日本を守るため。

象山先生は言った。日本を守るには、外国のことをよく知らねばならない。外国の技術力が脅威なのなら、なおのことを、それに精通せねばなりません。

外国に脅威を感じる、日本を守りたい。その気持ちは同じでも、しようとすることは違ってくる。そして、なぜ違うのかと怒り、日本を想う者同士が、敵対してしまった。


松陰は獄中から、同志たちに向けて、熱く激しい言葉を書き続けていました。囚われの身でも、できる限りのことをする。日本という船に乗る一員だという意識が、そうさせます。

日本という国のために、みなが力を尽くそうとする。



庭で うら(長谷川京子)が、植えた野菜に話しかけていました。「すくすく伸びて、偉えなあ。きれいな色の実がなった」。それを八重(綾瀬はるか)に見られ、ばつの悪そうな顔をする。

でも、それ以来、八重はいっそう、うらのことが好きになりました。ふたりの距離も、縮まったように見えます。豆に、大根に、土にまで、うらは感謝する。「おいしい物を育ててくれで、ありがとなっし」

そして、うれしい報せが、もたらされました。うらが懐妊したのです。八重は顔をクシャクシャにして、喜んだ。



尚之助が帰って来ました。コウモリ傘など、めずらしい土産を、たくさん買ってくれています。で、肝心の松陰のことですが、評定所の御詮議が始ったとのことでした。

松陰は安政の大獄を未然に防ごうと、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の襲撃を企てていたのです。これを藩の要人に持ちかけましたが、受け入れられなかった。さらに、弟子たちにも反対され、計画はとん挫。

お白州(しらす)で松陰は、梅田雲浜(うめだうんぴん)一党との関わりは完全に否定。しかし、間部詮勝への襲撃計画については、自供しました。それも、驚くほど素直に。

松陰は言った。「脅しに屈した開国は、国土を異国に破られたも同然。こげな折に、国を憂う者を弾圧しちょっては、人心は離反するばかりじゃ!」

松陰が伝えたかったのは、国の危機と、未来に向けた方策でした。が、評定所の者たちには、襲撃のことしか耳に入らなかった。松陰の声は、届かなかったのです。どんなに正しいことも、聞く耳を持たない者には、届かない。

それは、今も同じ…。



その話を、覚馬(西島秀俊)は信じられません。寅次郎さんには、誰よりも世界が見えているはずだ。が、尚之助が聞いたところによると、松陰は条約調印以来、人が変わったように激しく攘夷を唱え、塾生たちにも決起を促していたらしいのです。

と、そこに、覚馬を訪ねて侍が来た。特に気にも留めず対応しようとした覚馬でしたが、いきなり斬りつけられました。さらに隠れていた仲間も、襲撃に加わって来た。蘭学を教えている覚馬を、夷狄(いてき)におもねる奸物だと、断罪しに来たのです。

夫を助けようとした うらでしたが、浪士に払いのけられてしまった。その際、体を打ち付けてしまいます。三郎もコウモリ傘で奮闘。八重は三郎を守ろうとする。尚之助は鉄砲を持ち出し、威嚇した。

襲撃自体は失敗に終わりました。覚馬は無事です。しかし、うらの中にいた新しい命は、生まれることなく消えてしまった。



安政六年十月二十七日。松陰に裁きが下りました。罪状は、蟄居の身で梅田雲浜一派と結託したとのこと。死罪が申し付けられます。

これに松陰は、激しく反発した。といっても、死罪に対してではありません。「僕は、梅田雲浜の一党に与(くみ)したんじゃない! その申し渡し書は、偽りじゃ!」。死ぬのは怖くない。だから、すべてを話した。なのに、ちゃんと聞いてないではないか。

刑は、その日のうちに執行されました。



安政七年(1860年)一月。通商条約の批准書を交わす使節団が、ワシントンへと向かいました。勝海舟は、随行する咸臨丸(かんりんまる)に乗り込んでいた。

船上で、勝は誓います。「パシフィック 2,272里の旅だ。メリケンを見てくるぜ、寅次郎さん」

勝は、覚馬に書状を送っていた。出立まで時間がない中で、それでも松陰について伝えなければと、筆を執ったのです。

<身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし、大和魂>。松陰の辞世の句でした。

斬首の申し渡しが下りたのは、留魂録(りゅうこんろく)という名の遺書を書き終えた翌朝だったという。最後のお白州で、罪状がひどくちっぽけなものに すり替えられていた。激しく抵抗した松陰でしたが、すぐに取り押さえられます。

その際、松陰は言ったのだという。「此度の大事、私一人なりとも死んでみせれば、後に残った者たちが きっと奮い立つ。この国を守るために!」「天朝も、幕府も、藩も、要らん! ただ身一つで立ち上がればよい! 立ち上がれ!」

<草莽崛起(そうもうくっき)>。在野の人々よ、いっせいに立ち上がれ。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ、あらざるなり!」。誠を尽くせば、動かせないものなど、何もないのだ。

あまりの迫力に、その場にいた者はみな、気圧されたという。

が、松陰はそれ以上 抗おうとはせず、すべてを受け入れた。罪も、死も、今はまだ変わらぬこの国の実情も、すべてを認めて、旅立ちました。さあ、行こう。そして、あとはよろしく。


過激な攘夷派の姿勢と うらの一件があって、覚馬は松陰の死をうまく呑み込めないでいました。悲しむことができなかった。しかし、この勝からの書状が、すべてを解かしてくれました。流してくれた。

会津に降る雪は、まるで吉田松陰の心のように、真っ白だった。松陰には精一杯の誠があったと、覚馬は悟りました。無謀であろうと、愚かであろうと、ひとりの人間に、それ以上、何ができる…。

<至誠にして動かざる者は 未だこれ あらざるなり>

多くの人々の心に火を灯し、松陰は逝った。



安政七年(1860年)春。重苦しい冬が明けた。

八重が笑顔で駆けてゆきます。尚之助と時尾(貫地谷しほり)が、それに続く。覚馬とうらも来ました。丘に登ると、ちょうど フネとタイ子 笛と太鼓の音が聞こえてきました。会津の彼岸獅子です。これは、小松村の獅子。

「もうちっと、見てみっか?」、そう言って覚馬がうらの手をとった。悲しみを経験したふたりでしたが、絆はいっそう深まったようです。

春の彼岸に練り歩く、会津彼岸獅子。この音色を耳にすると、ああ春が来たんだなあと しみじみ思う。長い冬の終わりと、あたたかい春の報せを、運んでくれます。

向こうで、与七郎(玉山鉄二)も見物に来ています。父親が亡くなり当主となった今は、山川大蔵を名乗っている。山川家は、会津藩家老の家柄。大蔵は 日新館でも指折りの秀才で、その上、腕も立つ。大いに期待されています。

道の反対側からも、会津獅子が来ました。こちらは、天寧(てんねい)獅子。小松獅子と天寧獅子で、喧嘩が始りました。おまえがとけ、いや そっちがどけと、道を譲りません。でも、地元の者は、平気で見物している。彼岸獅子に喧嘩は付き物なのだそう。

と、その時、事件が起こった。ちょうど両者の間に、小さな男の子が割って入る格好になってしまったのです。しかも、言い争っている者たちは、それに気づいていない。

「あぶねえ!」、八重は丘から飛んで、子どもを守りました。それを見て大蔵も気づき、鎮まるように獅子たちに叫んだ。

男の子は無事でした。八重が抱きかかえて守り、大蔵が大人たちを捌(さば)いてくれた。尚之助も来て、子どもに怪我がないか見てくれました。

みなで獅子にまざって踊る。すっかり立派になった姿を見て、八重は、もう与七郎ではねえな、と思うのでした。



安政七年(1860年)三月三日。江戸では、季節外れの大雪が降っていました。

大老・井伊直弼(榎木孝明)を乗せた駕籠(かご)が、江戸城内郭門(うちぐるわもん)のひとつ桜田門に差し掛かろうとしている。と、その前に、駕籠訴(かごそ:駕籠が通過するのを待ち受けての直訴)を申し出る者が現れた。

行列がとまった瞬間、銃声が響きました。同時に、駕籠かきたちは逃げ出した。それは、襲撃の合図でもありました。浪士たちが、駕籠に向かって斬りかかってくる。

駕籠を守る彦根藩士たちでしたが、不利な状況が重なっていました。思いがけない大雪で視界が悪い上、刀には柄袋(つかぶくろ)が被せてある。これで、対応が遅れてしまった。準備して斬りかかった 襲撃側が有利な状況。しかも、足場が悪い。

そして、最初の発砲により、井伊直弼自身が負傷していました。弾は腰部に命中。既に動けない状態だったのです。駕籠に、刀が突きたてられる。護衛はみな倒され、井伊は駕籠から引きずり出されました。

襲撃者は、水戸の脱藩浪士ら18名。国を憂いた井伊直弼は、同じく国を憂う者たちにより、暗殺されたのです。

水戸藩士たちに討幕の志はなかったという。ただ井伊を粛正することで、幕府を改革しようとした。が、その意図とは裏腹に、この件により、幕府の衰退が世に知れ渡ることになる。政治の安定性は、失われてしまった。



井伊直弼暗殺の報は、会津在国中の松平容保(綾野剛)にも届いた。容保の脳裏に、井伊直弼の言葉がよみがえります。<命を捨てる覚悟がなければ、国事には当たれませぬ>。

江戸城に、容保ら有力な親藩・譜代大名が集められました。話し合われる問題は、水戸藩への処分です。将軍・徳川家茂は、尾張と紀伊に水戸を討たせよと仰せだという。

その頃、覚馬は会津で、評定の場に上げる書状をしたためていました。<会津は幕府と水戸の間を取り持ち、和平を保つことに尽力すべし>。今は、海外に国を開いたばかり。内乱など起きてしまうと、異国に付け入られてしまう。なので、双方が矛(ほこ)を収められるように、手を打たねばならない。

微禄者とは知りながら、意見せずにはおれませんでした。覚馬は思う。寅次郎さんがやろうとしたことは、こんな風に国をふたつに割ることではない。


水戸討伐で話が決まろうとする中、容保が口を開きました。「それがしは、水戸様を討ってはならぬと存じまする」。大老を害したのは脱藩した者どもであり、これをもって水戸藩を罰したのでは、筋が通らない。今 国内で争うのは、慎むべきだと。

この発言で、評議の流れが一変することとなりました。

覚馬の書は家老の判断で差し控えられることになった。殿のもとには、届けられませんでした。けれど、容保の考えは、覚馬と同じものだったのです。

が、この発言が、会津を動乱の渦中に投げ込む結果になろうとは…。





吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)





【感想】


危機に対応しようと思うと、変わらねばならない。

変わろうとすると、新旧など、相反するものが対決することになる。

対決すれば、疲弊する。

疲弊すれば、危機に対応できない。


なかなか、難しいですよね。


「変わる・変わらない」でいえば、変わらないと危ない。

ただ、内部分裂や内部抗争は避けたい。

急ぐと反発が出る以上、ゆっくりやるべきか?

でも、ゆっくり過ぎると、手遅れになるかもしれない。

そもそも、自覚があるのかもあやしい。


変容というのは、こういうギリギリのところで行われるのだろうか?

悲しみは、仕方ないのだろうか?


人と社会が、今も模索する。

呑気なままでは、剣呑だから。





<<「井伊直弼の本心│八重の桜(4)」
   「文久の改革と容保の決断│八重の桜(6)」>>



容保に、京都守護職就任の話が。

涙の決断、その行方は?


次週、第6回「会津の決断」。



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南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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